スッタニパータ5

九、ヴァーセッタ      
一〇、コーカーリヤ      
一一、ナーラカ

九、ヴァーセッタ

594  わたくしが聞いたところによると
──或るとき尊き師(ブッダ)はイッチャーナンガラ[村]の
イッチャーナンガラ林に住んでおられた。
そのとき、多くの著名な大富豪であるバラモンたちが
イッチャーナンガラ村に住んでいた。
すなわちチャンキンというバラモン、タールッカというバラモン
ポッカラサーティというバラモン、ジャーヌッソーニというバラモン
トーデーヤというバラモン及びその他の著名な大富豪である
バラモンたちであった。

 そのときヴァーセッタとバーラドヴァーシャという二人の青年が
(久しく坐していたために生じた疲労を除くために)
膝を伸ばすためにそぞろ歩きをあちこちで行っていた。

 かれらはたまたま次のような議論を始めた
「きみよ。どうしたらバラモンとなれるのですか?」

 バーラドヴァーシャ青年は次のように言った。
「きみよ。父かたについても母かたについても双方ともに
生れ(素姓)が良く、純粋な母胎に宿り、七世の祖先に至るまで
血統に関しては未だかって爪弾きされたことなく
かって非難されたことがないならば、まさにこのことによって
バラモンであるのである。」

 ヴァーセッタ青年は次のように言った
「きみよ。ひとが戒律をまもり徳行を身に具えているならば
まさにこのことによってバラモンであるのである。」

 [しかし]バーラドヴァーシャ青年はヴァーセッタ青年を
説得することができなかったし、またヴァーセッタ青年は
バーラドヴァーシャ青年を説得することができなかった。
そこでヴァーセッタ青年はバーラドヴァーシャ青年に告げて言った
「バーラドヴァーシャよ。シャカ族の子である<道の人>
ゴータマ(ブッダ)は、シャカ族の家から出家して、ここに
イッチャーナンガラ[村]のイッチャーナンガラ林のうちに住んでいる。
そのゴータマさまには次のような好い名声がおとずれている。
──すなわち、かの師は、尊敬さるべき人・目ざめた人
明知と行いとを具えた人・幸せな人・世間を知った人・無上の人
人々を調える御者・神々と人間との師・目ざめた人(ブッダ)
尊き師であるといわれる。
バーラドヴァーシャさん。さあ行こうよ。
<道の人>ゴータマのいるところに行こう。そこへ行ったら
<道の人>ゴータマにこのことがらを尋ねよう。
そうして<道の人>ゴータマがわれわれに解答してくれたとおりに
われわれはそれを承認しよう。」「そうしましょう」と
バーラドヴァーシャ青年はヴァーセッタ青年に答えた。

 そこでヴァーセッタ青年とバーラドヴァーシャ青年とは
師のいますところに赴いた。そうして、師に挨拶した。
喜ばしい、思い出についての挨拶のことばを交したのち
かれは傍らに坐した。
そこでヴァーセッタ・バラモンは次の詩を以て師に呼びかけた──

594 「われら両人は三ヴェーダの学者であると、(師からも)認められ
みずからも称しています。
わたくしはポッカラサーティの弟子であり
この人はタールッカの弟子です。

595 三ヴェーダに説かれていることがらを
われわれは完全に知っています。
われわれはヴェーダの語句と文法とに精通し
ヴェーダ読誦については師に等しいのです。

596 ゴータマよ。そのわれわれが生れの如何を論議して論争が起りました。
『生れによってバラモンなのである』とバーラドヴァーシャは語りますが、
わたくしは『行為によってバラモンとなるのである』と言います。
眼ある方よ。こういうわけなのだと了解してください。

597 われら両人は互いに相手を説得することができないのです。
そこで、<目ざめた人>(ブッダ)としてひろく知られているあなたさまに
たずねるために、やって来ました。

598 人々が満月に向って近づいて合掌し礼拝し敬うように、
世人はゴータマを礼拝し敬います。

599 世間の眼として出現したもうたゴータマに、われらはおたずねします。
生まれによってバラモンであるのでしょうか。
あるいは行為によってバラモンとなるのでしょうか?
われわれには解りませんから、話してください
──われわれがバラモンの何たるかを知りうるように。」

600 師が答えた
ヴェーダよ。そなたらのために、諸々の生物の生れ(種類の)区別を
順次にあるがままに説明してあげよう。
それらの生れは、いろいろと異なっているからである。

601 草や木にも(種類の区別のあることを)知れ。
しかしかれらは(「われは草である」とか、「我等は木である」とか)
言い張ることはないかれらの特徴は生まれにもとづいている。
かれらの生まれはいろいろと異なっているからである。

602 次に蛆虫や蟋蟀から蟻類に至るまでのものにも
(種類の区別のあることを)知れ。
かれらの特徴は生れにもとづいているのである。
かれらの生れは、いろいろと異っているからである。

603 小さいものでも、大きなものでも、四足獣にも
(種類の区別のあることを)知れ。
かれらの特徴は生れにもとづいているのである。
かれらの生れは、いろいろと異っているからである。

604 腹を足としていて背の長い
匍(は)うものにも(種類の区別のあることを)知れ。
かれらの特徴は生れにもとづいているのである。
かれらの生れは、いろいろと異っているからである。

605 次に、水の中に生まれ水に棲む魚どもにも
(種類の区別のあることを)知れ。
かれらの特徴は生れにもとづいているのである。
かれらの生れは、いろいろと異っているからである。

606 次に、翼を乗物として虚空を飛ぶ鳥どもにも
(種類の区別のあることを)知れ。
かれらの特徴は生れにもとづいているのである。
かれらの生れは、いろいろと異っているからである。

607 これらの生類には生まれにもとづく特徴はいろいろと異なっているが、
人類にはそのように生まれにもとづく特徴が
いろいろと異なっているということはない。

608 髪についても、頭についても、耳についても、眼についても
口についても、鼻についても、唇についても、眉についても、

609 首についても、肩についても、腹についても、背についても
臀についても、胸についても、隠所についても、交合についても、

610 手についても、足についても、指についても、脛につていも
腿についても、容色についても、音声についても
他の生類の中にあるような、生まれにもとづく特徴(の区別)は
(人類のうちには)決して存在しない。

611 身を禀(う)けた生きものの間ではそれぞれ区別があるが
人間の間ではこの区別は存在しない。
人間のあいだで区別表示が説かれるのは、ただ名称によるのみ。

612 人間のうちで、牧牛によって生活する人があれば
かれは農夫であって、バラモンではないと知れ。ヴァーセッタよ。

613 人間のうちで、種々の技能によって生活する人があれば
かれは職人であって、バラモンではないと知れ。ヴァーセッタよ。

614 人間のうちで売買をして生活する人があれば
かれは商人であって、バラモンではないと知れ。ヴァーセッタよ。

615 人間のうちで他人に使われて生活する者があれば
かれは傭人であって、バラモンではないと知れ。ヴァーセッタよ。

616 人間のうちで盗みをして生活する者があれば
かれは盗賊であって、バラモンではないと知れ。ヴァーセッタよ。

617 人間のうちで武術によって生活する者があれば
かれは武士であって、バラモンではないと知れ。ヴァーセッタよ。

618 人間のうちで司祭の職によって生活する者があれば
かれは司祭者であって、バラモンではないと知れ。ヴァーセッタよ。

619 人間のうちで村や国を領有する者があれば
かれは王であって、バラモンではないと知れ。ヴァーセッタよ。

620 われは、(バラモン女の)胎から生まれ
バラモンの)母から生まれた人をバラモンと呼ぶのではない。
かれは(きみよ、といって呼びかける者)といわれる。
かれは何か所有物の思いにとらわれている。
無一物であって執著のない人
──かれをわたしは(バラモン)と呼ぶ。

621 すべての束縛を断ち切り、怖れることなく、執著を超越して
とらわれることのない人──かれをわたしはバラモンと呼ぶ。

622 紐と革帯と綱とを、手綱ともども断ち切り
門をとざす閂(障礙)を減じて、目ざめた人(ブッダ)
──かれをわたくしはバラモンと呼ぶ。

623 罪がないのに罵られ、なぐられ、拘禁されるのを堪え忍び
忍耐の力あり、心の猛き人──かれをわたくしはバラモンと呼ぶ。

624 怒ることなく、つつしみあり、戒律を奉じ、欲を増すことなく
身をととのえ、最後の身体に達した人
──かれをわたくしはバラモンと呼ぶ。

625 蓮葉の上の露のように、錐(きり)の尖の芥子(けし)のように
諸々の欲情に汚されない人──かれをわたくしはバラモンと呼ぶ。

626 すでにこの世において自己の苦しみの滅びたことを知り
重荷をおろし、とらわれのない人──かれをわたくしはバラモンと呼ぶ。

627 明らかな智慧が深くて、聡明で、種々の道に通達し
最高の目的を達した人──かれをわたくしはバラモンと呼ぶ。

628 在家者・出家者のいずれとも交わらず、住家がなくて遍歴し
欲の少ない人──かれをわたくしはバラモンと呼ぶ。

629 強くあるいは弱い生きものに対して暴力を加えることなく
殺さず、また殺させることのない人──かれをわたくしはバラモンと呼ぶ。

630 敵意ある者どもの間にあって敵意なく
暴力を用いる者どもの間にあって心おだやかに
執著する者どもの間にあって執著しない人
──かれをわたくしはバラモンと呼ぶ。

631 芥子粒が錐の尖端から落ちたように
愛著と憎悪と高ぶりと隠し立てとが脱落した人
──かれをわたくしはバラモンと呼ぶ。

632 粗野ならず、ことがらをはっきりと伝える真実のことばを発し
ことばによって何人の感情をも害することのない人
──かれをわたくしはバラモンと呼ぶ。

633 この世において、長かろうと短かろうと
微細であろうとも粗大であろうとも、浄かろうとも不浄であろうとも
すべて与えられていない物を取らない人
──かれをわたくしはバラモンと呼ぶ。

634 現世を望まず、来世をも望まず、欲求もなくて、とらわれのない人、──かれをわたしはバラモンと呼ぶ。

635 こだわりあることなく、さとりおわって、疑惑なく
不死の底に達した人──かれをわたくしはバラモンと呼ぶ。

636 この世の禍福いずれにも執著することなく、憂いなく、汚れなく
清らかな人──かれをわたくしはバラモンと呼ぶ。

637 曇りのない月のように、清く、澄み、濁りがなく
歓楽の生活の尽きた人──かれをわたくしはバラモンと呼ぶ。

638 この傷害・険道・輪廻(さまよい)・迷妄を超えて
渡りおわって彼岸に達し、瞑想し、興奮することなく
執著がなくて、心安らかな人──かれをわたくしはバラモンと呼ぶ。

639 この世の欲望を断ち切り、出家して遍歴し、欲望の生活の尽きた人
──かれをわたくしはバラモンと呼ぶ。

640 この世の愛執を断ち切り、出家して遍歴し、愛執の生活の尽きた人
──かれをわたくしはバラモンと呼ぶ。

641 人間の絆を捨て、天界の絆を超え、すべての絆をはなれた人
──かれをわたしは(バラモン)と呼ぶ。

642 <快楽>と<不快>とを捨て、清らかに涼しく、とらわれることなく
全世界にうち勝った健き人──かれをわたしは(バラモン)と呼ぶ。

643 生きとし生ける者の生死をすべて知り、執著なく、幸せな人
覚った人──かれをわたしは(バラモン)と呼ぶ。

644 神々も天の伎楽神(ガンダルヴァ)たちも人間も
その行方を知り得ない人、煩悩の汚れを減しつくした人
──かれをわたしは(バラモン)と呼ぶ。

645 前にも、後にも、中間にも、一物をも所有せず、すべて無一物で
何ものをも執著して取りおさえることのない人
──かれをわたしは(バラモン)と呼ぶ。

646 牡牛のように雄々しく、気高く、英雄・大仙人・勝利者
欲望のない人・沐浴した者・覚った人(ブッダ)
──かれをわたしは(バラモン)と呼ぶ。

647 前世の生涯を知り、また天上と地獄とを見
生存を減し尽くしに至った人──かれをわたしは(バラモン)と呼ぶ。

648 世の中で名とし姓として付けられているものは、名称にすぎない。
(人の生まれた)その時その時に付けられて
約束の取り決めによってかりに設けられて伝えられているのである。

649 (姓名は、かりに付けられたものにすぎないということを)
知らない人々にとっては、誤った偏見が長い間ひそんでいる。
知らない人々はわれらに告げていう
『生れによってバラモンなのである』と。

650 生まれによって(バラモン)となるのではない。
生まれによって(バラモンならざる者)となるのでもない。
行為によって(バラモン)なのである。
行為によって(バラモンならざる者)なのである。

651 行為によって農夫となるのである。
行為によって職人となるのである。行為によって商人となるのである。
行為によって傭人となるのである。

652 行為によって盗賊ともなり、行為によって武士ともなるのである。
行為によって司祭者ともなり、行為によって王ともなる。

653 賢者はこのようにこの行為を、あるがままに見る。
かれらは縁起を見る者であり、行為(業)とその報いとを熟知している。

654 世の中は行為によって成り立ち、人々は行為によって成り立つ。
生きとし生ける者は業(行為)に束縛されている
--進み行く車が轄(くさび)に結ばれているように。

655 熱心な修行と清らかな行いと感官の制御と自制と
これによって<バラモン>となる。
これが最上のバラモンの境地である。

656 三つのヴェーダ(明知)を具え、心安らかに
再び世に生まれることのない人は、諸々の識者にとっては
梵天や帝釈[と見なされる]のである。
ヴァーセッタよ。このとおりであると知れ。」

 このように説かれたので、ヴァーセッタ青年と
バーラドヴァーシャ青年とは師に向って言った
「すばらしいことです。ゴータマ(ブッダ)さま。
すばらしいことです。ゴータマさま。譬えば、倒れた者を起こすように
覆われたものを開くように、方角に迷った者に道を示すように
あるいは『眼ある人々は色やかたちを見るように』といって
暗夜に灯火をかかげるように、ゴータマさまは種々のしかたで
理法を明らかにされました。
いまわたくしはゴータマさまと真理と修行僧のつどいに帰依したてまつる。
ゴータマさまはわたくしたちを、在俗信者として受けいれてください。
わたくしたちは、今日から命の続く限り帰依いたします。」

十、コーカーリヤ

 わたしが聞いたところによると
──或るとき尊き師(ブッダ)は、サーヴァッティー市のジェータ林
<孤独な人々に食を給する長者の園>におられた。
そのとき修行僧コーカーリヤは師のおられるところに赴いた。
そうして、師に挨拶して、傍らに坐した。
それから修行僧コーカーリヤは師に向っていった
「尊き師(ブッダ)よ。サーリプッタモッガラーナとは邪念があります。
悪い欲求にとらわれています。」

 そう言ったので、師(ブッダ)は修行僧コーカーリヤに告げて言われ
「コーカーリヤよ、まあそういうな。コーカーリヤよ、まあそういうな。
サーリプッタモッガラーナとを信じなさい。
サーリプッタモッガラーナとは温良な性の人たちだ。」

 修行僧コーカーリヤは再び師にいった
「尊き師よ。わたくしは師を信じてお頼りしていますが
しかしサーリプッタモッガラーナとは邪念があります。
悪い欲求にとらわれています。」

 師は再び修行僧コーカーリヤに告げて言われた
「コーカーリヤよ、まあそういうな。
コーカーリヤよ、サーリプッタモッガラーナとを信じなさい。
サーリプッタモッガラーナとは温良な性の人たちだ。」

 修行僧コーカーリヤは三たび師にいった
「尊き師よ。わたくしは師を信じてお頼りしていますが
しかしサーリプッタモッガラーナとは邪念があります、
悪い欲求にとらわれています。」

 師は三たび修行僧コーカーリヤに告げて言われた
「コーカーリヤよ、まあそういうな。
コーカーリヤよ、サーリプッタモッガラーナとを信じなさい。
サーリプッタモッガラーナとは温良な性の人たちだ。」

 そこで修行僧コーカーリヤは座から起って、師に挨拶して
右まわりをして立ち去った。
修行僧コーカーリヤが立ち去ってからまもなく
かれの全身に芥子粒ほどの腫物が出てきた。
(初めは)芥子粒ほどであったものが、(次第に)小豆ほどになった。
小豆ほどであったものが、大豆ほどになった。
大豆ほどであったものが、棗の核ほどになった。
棗の核ほどあったものが、棗の果実ほどになった。
棗の果実ほどあったものが余甘子ほどになった。
余甘子ほどであったものが、未熟な木爪の果実ほどになった。
未熟な木爪の果実ほどであっものが、熟した木爪ほどになった。
熟した木爪ほどになったものが破裂し、膿と血とが迸り出た。
そこで修行僧コーカーリヤはその病苦のために死去した。
修行僧コーカーリヤは、サーリプッタモッガラーナとに対して
敵意をいだいていたので、死んでから紅蓮地獄に生まれた。

 そのときサハー(老婆)世界の主・梵天は、夜半を過ぎた頃に
麗しい容色を示して、ジェータ林を隈なく照らして
師のおられるところに赴いた。そうして師に敬礼して傍らに立った。
そこでサハー世界の王である梵天は師に告げていった。
尊いお方さま。修行僧コーカーリヤは死去しました。
修行僧コーカーリヤは、サーリプッタモッガラーナとに対して
敵意をいだいていたので、死んでから紅蓮地獄に生まれました。」
サハー世界の主・梵天はこのように言った。
このように言ってから、師に敬礼し、右まわりをして
その場で消え失せた。

 さて、その夜が明けてから、師は、諸々の修行僧に告げて言われた
「諸々の修行僧らよ。昨夜サハー世界の主である梵天
夜半を過ぎた頃に、麗しい容色を示して、ジェータ林を隈なく照らして
わたくしのいるところに来た。それからわたくしに敬礼して傍らに立った。
さうしてサハー世界の主である梵天は、わたくしに告げていった。
尊いお方さま。修行僧コーカーリヤは死去しました。
修行僧コーカーリヤは、サーリプッタモッガラーナとに対して
敵意をいだいていたので、死んでから紅蓮地獄に生まれました』と。
サハー世界の主である梵天はこのように言った。
そうして、師を敬礼し、右まわりして、その場で消え失せた。」

 このように説かれたときに、一人の修行僧が師に告げていった
尊いお方さま。紅蓮地獄における寿命の長さは、どれだけなのですか?」

 「修行僧よ。紅蓮地獄における寿命は実に長い。
それを、幾年であるとか、幾百年であるとか、幾千年であるとか
幾十万年であるとか、数えることはむずかしい。」

 「尊いお方さま。しかし譬喩を以て説明することがでまるでしょう。」

 「修行僧よ。それはできるのです」といって、師は言われた
「たとえば、コーサラ国の枡目ではかつて二十カーリカの胡麻の積荷
(一車輌分)があって、それを取り出すとしょう
ついで一人の人が百年を過ぎるごとに胡麻を一粒ずつ取り出すとしよう。
その方法によって、コーサラ国の枡目ではかって
二十カーリカの胡麻の積荷(一車輌分)が速やかに尽きたとしても
一つのアッブタ地獄はまだ尽きるに至らない。
二十のアッブダ地獄は一つのニラッブダ地獄[の時期]に等しい。
二十のニラッブダ地獄は一つのアババ地獄[の時期]に等しい。
二十のアババ地獄は一つのアハハ地獄[の時期]に等しい。
二十のアハハ地獄は一つのアタタ地獄[の時期]に等しい。
二十のアタタ地獄は一つの黄蓮地獄[の時期]に等しい。
二十の黄蓮地獄は一つの白睡蓮地獄[の時期]に等しい。
二十の白睡地獄は一つの青蓮地獄[の時期]に等しい。
二十の青蓮地獄は一つの白蓮地獄[の時期]に等しい。
二十の紅蓮地獄[の時期]に等しい。ところで修行僧コーカーリヤは
サーリプッタおよびモッガラーナに対して敵意をいだいていたので
紅蓮地獄に生まれたのである。」

 師はこのように言われた。幸せな人である師は
このことを説いてから、さらに次のように言われた。──

657 人が生まれたときには、実に口の中には斧が生じている。
愚者は悪口を言って、その斧によって自分を斬り割くのである。

658 毀(こぼ)るべき人を誉め、また誉むべき人を毀る者
──かれは口によって禍をかさね、その禍のゆえに
福楽を受けることができない。

659 賭博で財を失う人は、たとい自身を含めて一切を失うとも
その不運はわずかなものである。しかし立派な聖者に対して
悪意をいだく人の受ける不運は、まことに重いのである。

660 悪口を言いまた悪意を起して聖者をそしる者は
十万と三十六のニラップダの[巨大な年数のあいだ]
また五つのアッブダの[巨大な年数のあいだ]地獄に赴く。

661 嘘を言う人は地獄に墜ちる。また実際にしておきながら
わたしはしませんでした」と言う人もまた同じ。
両者とも行為の卑劣な人々であり
死後にはあの世で同じような運命を受ける(地獄に墜ちる)。

662 害心なく清らかで罪汚れのない人を憎むかの愚者には
必ず悪(い報い)がもどってくる。
風に逆らって微細な塵を撒き散らすようなものである。

663 種々なる貪欲に耽る者は、ことばで他人をそしる
──かれ自身は、信仰心なく、ものおしみして、不親切で、けちで
やたらにかげ口を言うのだが。

664 口穢く、不実で、卑しい者よ。
生きものを殺し、邪悪で、悪行をなす者よ。
不劣を極め、不吉な、でき損いよ。
この世であまりおしゃべりするな。お前は地獄に落ちる者だぞ。

665 お前は塵を播いて不利を招き、罪をつくりながら
諸々の善人を非難し、また多くの悪事をはたらいて、
長いあいだ深い坑(地獄)に陥る。

666 けだし何者の業も滅びることはない。
それは必ずもどってきて、(業をつくった)主がそれを受ける。
愚者は罪を犯して、来世にあってはその身に苦しみを受ける。

667 (地獄に墜ちた者は)、鉄の串を突きさされるところに至り
鋭い刃のある鉄の槍に近づく。
さてまた灼熱した鉄丸のような食物を食わされるが
それは、(昔つくった業に)ふさわしい当然なことである。

668 (地獄の獄卒どもは「捕えよ」「打て」などといって)
誰もやさしいことばをかれることなく
(温顔をもって)向ってくることなく、頼りになってくれない。
(地獄に墜ちた者どもは)、敷き拡げられた炭火の上に臥し
あまねく燃え盛る火炎の中に入る。

669 またそこでは(地獄の獄卒どもは)鉄の網をもって
(地獄に墜ちた者どもを)からめとり、鉄槌をもって打つ。
さらに真の暗黒である闇に至るが
その闇はあたかも霧のようにひろがっている。

670 また次に(地獄に堕ちた者どもは)
火炎があまねく燃え盛っている鋼製の釜にはいる。
火の燃え盛るそれらの釜の中で永いあいだ煮られて、浮き沈みする。

671 また膿や血のまじった湯釜があり、罪を犯した人はその中で煮られる。
かれがその釜の中でどちらの方角へ向って横たわろうとも
(膿と血とに)触れて汚される。

672 また蛆虫の棲む水釜があり、罪を犯した人はその中で煮られる。
出ようにも、つかむべき縁がない。
その釜の上部は内側に彎曲していて、まわりが全部一様だからである。

673 また鋭い剣の葉のついた林があり
(地獄に墜ちた者どもが)その中に入ると、手足を切断される。
(地獄の獄卒どもは)鉤を引っかけて舌をとらえ
引っ張りまわし、引っ張り廻しては叩きつける。

674 また次に(地獄に墜ちた者どもは)、超え難いヴェータラニー河に至る。
その河の流れは鋭利な剃刀の刃である。
愚かな輩は、悪い事をして罪を犯しては、そこに陥る。

675 そこには黒犬や斑犬や黒烏の群や野狐がいて
泣きさけぶかれらを貪り食うて飽くことがない。
また鷹や黒色ならぬ烏どもまでが啄む。

676 罪を犯した人が身に受けるこの地獄の生存は、実に悲惨である。
だから人は、この世において余生のあるうちになすべきことをなして
忽せにしてはならない。

677 紅蓮地獄に運び去られた者(の寿命の年数)は
荷車につんだ胡麻の数ほどある、と諸々の智者は計算した。
すなわちそれは五千兆年とさらに一千万の千二百倍の年である。

678 ここに説かれた地獄の苦しみがどれほど永く続こうとも
その間は地獄にとどまらなねばならない。
それ故に、ひとは清く、温良で、立派な美徳をめざして
常にことばとこころをつつしむべきである

十一、ナーラカ

 [ 序 ]

679 よろこび楽しんでいて清らかな衣をまとう三十の神々の群と
帝釈天とが、恭しく衣をとって極めて讃嘆しているのを
アシタ仙は日中の休息のときに見た。

680 こころ喜び踊りあがっている神々を見て
ここに仙人は恭々しくこのことを問うた、

「神々の群が極めて満悦しているのは何故ですか?
どうしたわけでかれらは衣をとってそれを振り廻しているのですか?

681 たとえ阿修羅との戦いがあって神々が勝ち阿修羅が敗れたときにも
そのように身の毛の振るい立つぼど喜ぶことはありませんでした。
どんな稀なできごとを見て神々は喜んでいるのですか?

682 かれは叫び、歌い、楽器を奏で、手を打ち、踊っています。
須弥山の頂に住まわれるあなたがたに、わたくしはおたずねします。
尊き方々よ、わたくしの疑いを速かに除いてください。」

683 (神々は答えて言った)
「無比のみごとな宝であるかのボーディサッタ(菩薩、未来の仏)は
もろびとの利益安楽のために人間世界に生まれたもうたのです
──シャカ族の村に、ルンビニーの聚落に。
だからわれらは嬉しくなって、非常に喜んでいるのです。

684 生きとし生ける者の最上者、最高の人、牡牛のような人
生きとし生けるもののうちの最高の人(ブッダ)は
ゆがて<仙人(のあつまる所)>という名の林で(法)輪を回転するであろう。──猛き獅子が百獣にうち勝って吼えるように。」

685 仙人は(神々の)その声を聞いて急いで(人間世界に)降りてきた。
そのときスッドーダナ王の宮殿に近づいて、そこに坐して
シャカ族の人々に次のようにいった、

 「王子はどこにいますか。わたくしもまた会いたい。」

686 そこで諸々のシャカ族の人々は、その児を
アシタという(仙人)に見せた
──溶炉で巧みな金工が鍛えた黄金のように
きらめき幸福に光り輝く尊い児を。

687 火炎のように光り輝き、空行く星王(月)のように清らかで
雲を離れて照る秋の太陽のように輝く児を見て、歓喜を生じ
昴まく喜びでわくわくした。

688 神々は、多くの骨あり千の円輪ある傘蓋を空中にかざした。
また黄金の柄のついた払子で[身体を]上下に扇いだ。
 しかし払子や傘蓋を手にとっている者どもは見えなかった。

689 カンハシリ(アシタ)という結髪の仙人は
こころ喜び、嬉しくなって、その児を抱きかかえた
──その児は、頭の上に白い傘をかざされて白色がかった毛布の中にいて
黄金の飾りのようであった。

690 相好と呪文(ヴェーダ)に通曉しているかれは
シャカ族の牡牛(のような立派な児)を抱きとって、(特相を)検べたが
心に歓喜して声を挙げた
──「これは無上の方です、人間のうちで最上の人です。」

691 ときに仙人は自分の行く末を憶うて、ふさぎこみ、涙を流した。
仙人が泣くのを見て、シャカ族の人々は言った
──「われらの王子に障りがあるのでしょうか?」

692 シャカ族の人々が憂えているのを見て、仙人は言った──
「わたくしは、王子に不吉の相があるのを
思いつづけているのではありません。またかれに障りはないでしょう。
この方は凡庸ではありません。よく注意してあげてください。

693 この王子は最高のさとりに達するでしょう。
この人は最上の清浄を見、多くの人々のためをはかり、あわれむが故に
法輪をまわすでしょう。この方の清らかな行いはひろく弘まるでしょう。

694 ところが、この世におけるわたくしの余命はいくばくもありません。
(この方がさとりを開かれるまえに)
中途でわたくしは死んでしまうでしょう。
わたくしは比なき力ある人の教えを聞かないでしょう。
だから、わたくしは、悩み、悲嘆し、苦しんでいるのです。」

695 かの清らかな修行僧(アシタ仙人)は
シャカ族の人々に大きな喜びを起させて、宮廷から去っていった。
かれは自分の甥(ナーラカ)をあわれんで
比なき力ある人の教えに従うようにすすめた。──

696 「もしもお前が後に『目ざめた人あり、さとりを開いて
真理の道を歩む』という声を聞くならば
そのときそこへ行ってかれの教えをたずね
その師のもとで清らかな行いを行え。」

697 その聖者は、人のためをはかる心あり
未来における最上の清らかな境地を予見していた。
その聖者に教えられて、かねて諸々の善根を積んでいたナーラカは
勝利者(ブッダ)を待望しつつ、みずからの感官をつつしみ
まもって暮らした。

698 <すぐれた勝利者が法輪をまわしたもう>との噂を聞き
アシタという(仙人)の教えのとおりになったときに、出かけていって
最上の人である仙人(ブッダ)に会って信仰の心を起し
いみじき聖者に最上の聖者の境地をたずねた。

 序文の詩句は終った。

699 [ナーラカは尊師にいった]
「アシタの告げたこのことばはそのとおりであるということを
了解しました。故に、ゴータマよ
一切の道理の通達者(ブッダ)であるあなたにおたずねします。

700 わたくしは出家の身となり、托鉢の行を実践しようと
願っているのですが、おたずねします。聖者よ
聖者の境地、最上の境地を説いてください」

701 師(ブッダ)はいわれた
「わたくしはあなたに聖者の境地を教えてあげよう。
これは行いがたく、成就し難いものである。
さあ、それをあなたに説いてあげるようしっかりとして、堅固であれ。

702 村にあっては、罵られても、敬礼されても、平然とした態度で臨め。
(罵られても)こころに怒らないように注意し
(敬礼されても)冷静に、高ぶらずにふるまえ。

703 たとい園林のうちにあっても、火炎の燃え立つように
種々のものが現れ出てくる。
婦女は聖者を誘惑する。婦女をしてかれを誘惑させるな。

704 婬欲のことがらを離れ、さまざまの愛欲をすてて、弱いものでも
強いものでも、諸々の生きものに対して敵対することなく
愛著することもない。

705 『かれもわたしと同様であり、わたしもかれと同様である』と思って
わがみに引きくらべて、(生きるものを)殺してはならなぬ。
また他人をして殺させてはならない。

706 凡夫は欲望と貪りと執著しているが
眼ある人はそれを捨てて道を歩め。この(世の)地獄を超えよ。

707 腹をへらして、食物を節し、小欲であって、貪ることなかれ。
かれは貪り食う欲望に厭きて、無欲であり、安らぎに帰している。

708 その聖者は托鉢にまわり歩いてから、林のほとりにおもむき
樹の根もとにとどまって座につくべきである。

709 かれは思慮深く、瞑想に専念し、林のほとりで楽しみ
樹の根もとで瞑想し、大いにみずから満足すべきである。

710 ついで夜が明けたならば、村里のほとりに去るべきである。
(信徒から)招待を受けても、また村から食物をもらってきても
決して喜んではならない。

711 聖者は、村に行ったならば、家々を荒々しく
ガサツに廻ってはならない。話をするな。
わざわざ策して食を求めることばを発してはならない。

712 『(施しの食べ物を)得たのは善かった』
『得なかったのもまた善かった』と思って
全き人はいずれの場合にも平然として還ってくる。
あたかも(果実をもとめて)樹のもとに赴いた人が
(果実を得ても得なくても、平然として)帰ってくるようなものである。

713 かれは鉢を手にして歩き廻り
唖者ではないのに唖者と思われるようにするためだ。
施物が少なかったらとて軽んじてはならぬ。
施してくれる人を侮ってはならない。

714 道の人(ブッダ)は高く或いは低い種々の道を説き明かしたもうた。
重ねて彼岸に至ることはないが、一度で彼岸に至ることもない。

715 (輪廻の)流れを断ち切った修行僧には執著が存在しない。
なすべき(善)となすべからざる(悪)とを捨て去っていて
かれは煩悶が存在はない。」

716 師がいわれた
「あなたに聖者の道を説こう
──(食をとるには)剃刀の刃の譬えのように用心せよ。
舌で上口蓋を抑え、腹についてはみずから食を節すべし。

717 心が沈んでしまってはいけない。
またやたらに多くのことを考えてはいけない。
腥い臭気なく、こだわることなく、清らかな行いを究極の理想とせよ。

718 独り坐することと道の人に奉仕することを学べ。
聖者の道は独り居ることであると説かれている。
独り居てこそ楽しめるであろう。

719 そうすればかれは十方に光輝くであろう。
欲望をすてて瞑想している諸々の賢者の名声を聞いたならば
わが教えを聞く者はますます恥を知り、信仰を起すべきである。

720 そのことを深い淵の河水と浅瀬の河水とについて知れ。
河低の浅い小川の水は音を立てて流れるが
大河の水は音を立てないで静かに流れる。

721 欠けている足りないものは音を立てるが
満ち足りたものは全く静かである。
愚者は半ば水を盛った水瓶のようであり
賢者は水の満ちた湖のようである。

722 道の人が理法にかない意義あることを多く語るのは
みずから知って教えを説くのである。

723 しかしみずから知って己れを制し
みずから知っているのに多くのことを語らないならば
かれは聖者として聖者の行にかなう。
かれは聖者として聖者の行を体得した。」


十二、二種の観察