スッタニパータ6

一二、二種の観察 

第四 八つの詩句の章      

一、欲望      
二、洞窟についての八つの詩句      
三、悪意についての八つの詩句      
四、清浄についての八つの詩句      
五、最上についての八つの詩句      
六、老い      

十二、二種の観察

724 わたしが聞いたところによると
──或るとき尊師はサーヴァッティーの[郊外にある]東園にある
ミガーラ(長者)の母の宮殿のうちにとどまっておられた。
そのとき尊師(ブッダ)はその定期的集会(布薩)の日、十五日、満月の夜に
修行僧(比丘)の仲間に囲まれて屋外に住しておられた。
さて尊師は仲間が沈黙しているのを見まわしてかれらに告げていわれた──

 修行僧たちよ。善にして、尊く、出離を得させ
さとりにみちびく諸々の真理がある。
そなたたちが、『善にして、尊く、出離を得させ
さとりにみちびく諸々の真理を聞くのは、何故であるか』と
もしもだれかに問われたならば、かれに対しては
次のように答えねばならぬ
──『二種ずつの真理を如実に知るためである』と。
しからば、そなたたちのいう二種とは何であるか、というならば
『これは苦しみである。これは苦しみの原因である』というのが
一つの観察[法]である。
『これは苦しみの消滅に至る道である』というのが
第二の観察[法]である。
修行僧たちよ。このように二種[の観察法]を正しく観察して
怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては
二つの果報のうちのいずれか一つの果報が期待され得る。

 ──すなわち現世における<さとり>か、あるいは
煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないこと(不還)である。──

 尊師はこのように告げられた。
そして、幸せな師(ブッダ)は、さらにまた次のように説かれた。

724 苦しみを知らず、また苦しみの生起するもとを知らず
また苦しみのすべて残りなく滅びるところをも
また苦しみの消滅に達する道をも知らない人々、──

725 かれらは心の解脱を欠き、また智慧の解脱を欠く。
かれらは(輪廻を)終滅させることができない。
かれは実に生と老いとを受ける。

726 しかるに、苦しみを知り、また苦しみの生起するもとを知り
また苦しみのすべて残りなく滅びるところを知り
また苦しみの消滅に達する道を知った人々、──

727 かれらは、心の解脱を具現し、また智慧の解脱を具現する。
かれらは(輪廻を)終滅させることができる。
かれらは生と老いとを受けることがない。

 「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを
正しく観察することができるのか?』と、もしもだれかに問われたならば
『できる』と答えなければならない。どうしてであるか?
『およそ苦しみが生ずるのは、すべて素因に縁って起るのである』
というのが、一つの観察[法]である。
『しかしながら素因が残りなく離れ消滅するならば
苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。
このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで
専心している修行僧にとっては、二つの果報のうち
いずれか一つの果報が期待される。──すなわち現世における<さとり>か
あるいは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないことである。

 師(ブッダ)はこのように告げられた。
そうして、幸せな師(ブッダ)は、さらにまた次のように説かれた。

728 世間には種々なる苦しみがあるが
それらは生存の素因にもとづいて生起する。
実に愚者は知らないで生存の素因をつくり、くり返し苦しみを受ける。
それ故に、知り明らめて、苦しみの生ずる原因を観察し
再生の素因をつくるな。

 「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを
正しく観察することができるのか?』と、もしもだれかに問われたならば
『できる』と答えなければならない。どうしてであるか?
『どんな苦しみが生ずるのでも、すべて無明に縁って起るのである』
というのが、一つの観察[法]である。
『しかしながら無明が残りなく離れ消滅するならば
苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。
このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで
専心している修行僧にとっては、二つの果報のうち
いずれか一つの果報が期待され得る。
──すなわち現世における<さとり>か、あるいは煩悩の残りがあるならば
この迷いの生存にもどらないことである。」

 師(ブッダ)はこのように告げられた。
そうして、幸せな師はさらにまた次のように説かれた。

729 この状態から他の状態へと、くり返し生死輪廻に赴く人々は
その帰趣(行きつく先)は無明にのみ存する。

730 この無明とは大いなる迷いであり
それによって永いあいだこのように輪廻してきた。
しかし明知に達した生けるものどもは、再び迷いの生存に戻ることがない。

 「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを
正しく観察することができるのか?』ともしもだれかに問われたならば
『できる』と答えなければならない。どうしてであるか?
『およそ苦しみが生ずるのは、すべて潜在的形成力に縁って起るのである』
というのが、一つの観察[法]である。
『しかしながら潜在的形成力が残りなく離れ消滅するならば
苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。
このように二種(の観察法)を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで
専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちの
いずれか一つの果報が期待され得る。
──すなわち現世における<さとり>か、あるいは煩悩の残りがあるならば
この迷いの生存に戻らないことである。」──

 師(ブッダ)はこのように告げられた。
そうして、幸せな師はさらにまた次のように説かれた。

731 およそ苦しみが生ずるのは
すべて潜在的形成力を縁(原因)として起るのである。
諸々の潜在的形成力が消滅するならば、もはや苦しみの生ずることもない。

732 「苦しみは潜在的形成力の縁から起るものである」と
この災いを知って、一切の潜在的形成力が消滅し
(欲など)相を止めたならば、苦しみは消滅する。このことを如実に知って

733 正しく見、正しく知った諸々の賢者・ヴェーダの達人は
悪魔の繋縛にうち勝って、もはや迷いの生存に戻ることがない。

 「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを
正しく観察することができるのか?』と、もしもだれかに問われたならば
『できる』と答えなければならない。どうしてであるか?
『およそ苦しみが生ずるのは、すべて識別作用(識)に縁って起るのである』
というのが、一つの観察[法]である。
『しかしながら識別作用が残りなく離れ消滅するならば
苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。
このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで
専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちの
いずれか一つの果報が期待される。
──すなわち現世における<さとり>か、あるいは煩悩の残りがあるならば
この迷いの生存に戻らないことである。」──

 師(ブッダ)はこのように告げられた。
そうして、幸せな師はさらにまた次のように説かれた。

734 およそ苦しみが生ずるのは、すべて識別作用に縁って起るのである。
識別作用が消滅するならば
もはや苦しみが生起するということはあり得ない。

735 「苦しみは識別作用に縁って起るのである」と、この禍いを知って
識別作用を静まらせたならば、修行者は、快をむさぼることなく
安らぎに帰しているのである。

 「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを
正しく観察することができるのか?』と、もしもだれかに問われたならば
『できる』と答えなければならない。どうしてであるか?
『およそ苦しみが生ずるのは、すべて接触に縁って起るのである』
というのが、一つの観察[法]である。
『しかしながら接触が残りなく離れ消滅するならば
苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。
このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで
専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちの
いずれか一つの果報が期待される。
──すなわち現世における<さとり>か、あるいは煩悩の残りがあるならば
この迷いの生存に戻らないことである。」

師(ブッダ)はこのように告げられた。
そうして、幸せな師はさらにまた次のように説かれた。

736 接触にとらわれ、生存の流れにおしながされ、邪道を歩む人々は
束縛の消滅は遠いかなたにある。

737 しかし接触を熟知し理解して、平安を楽しむ人々は
実に接触がほろびるが故に、快を感ずることなく、安らぎに帰している。

 「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを
正しく観察することができるのか?』と、もしもだれかに問われたならば
『できる』と答えなければならない。どうしてであるか?
『およそ苦しみが生ずるのは、すべて感受に縁って起るものである』
というのが、一つの観察[法]である。
『しかしながら諸々の感受が残りなく離れ消滅するならば
苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。
このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで
専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちの
いずれか一つの果報が期待される。
──すなわち現世における<さとり>か、あるいは煩悩の残りがあるならば
この迷いの生存に戻らないことである。」──

 師(ブッダ)はこのように告げられた。
そうして、幸せな師はさらにまた次のように説かれた。

738 楽であろうと、苦であろうと、悲苦悲楽であろうとも
内的にも外的にも、およそ感受されたものはすべて

739 「これは苦しみである」と知って、滅び去るものである
虚妄の事物に触れるたびごとに、衰滅することを認め
このようにしてそれらの本性を識知する。
諸々の感受が消滅するが故に、修行僧は快を感ずることなく
安らぎに帰している。

 「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを
正しく観察することができるのか?』と、もしもだけかに問われたならば
『できる』と答えなければならない。どうしてであるか?
『およそ苦しみが生ずるのは、妄執(愛執)に縁って起るのである』
というのが、一つの観察[法]である。
『しかしながら妄執が残りなく離れ消滅するならば
苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。
このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで
専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちの
いずれか一つの果報が期待され得る。
──すなわち現世における<さとり>か、あるいは煩悩の残りがあるならば
この迷いの生存に戻らないことである。」──

 師(ブッダ)はこのように告げられた。
そうして、幸せに師はさらにまた次のように説かれた。

740 妄執を友としている人は、この状態からの状態へと永い間流転して
輪廻を超えることができない。

741 妄執は苦しみの起る原因である、とこの禍いを知って妄執を離れて
執著することなく、よく気をつけて、修行僧は遍歴すべきである。

 「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを
正しく観察することができるのか?』と、もしもだけかに問われたならば
『できる』と答えなければならない。どうしてであるか?
『およそ苦しみが生ずるのは、すべて執著に縁って起るのである。』
というのが、一つの観察[法]である。
『しかしながら諸々の執著が残りなく離れ消滅するならば
苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。
このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで
専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちの
いずれか一つの果報が期待され得る
──すなわち現世における<さとり>か、あるいは煩悩の残りがあるならば
この迷いの生存に戻らないことである。」──

 師(ブッダ)はこのように告げられた。
そうして、幸せな師はさらにまた次のように説かれた。

742 執著に縁って生存が起る。生存する者は苦しみを受ける。
生れた者は死ぬ。これが苦しみの起る原因である。

743 それ故に諸々の賢者は、執著が消滅するが故に、正しく知って
生まれの消滅したことを熟知して、再び迷いの生存にもどることがない。

 「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを
正しく観察することができるのか?』と、もしもだれかに問われたならば
『できる』と答えなければならない。どうしてであるか?
『およそ苦しみが生ずるのは、すべて起動に縁って起るのである。』
というのが、一つの観察[法]である。
『しかしながら諸々の起動が残りなく離れ消滅するならば
苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。
このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで
専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちの
いずれか一つの果報が期待され得る
──すなわち現世における<さとり>か、あるいは煩悩の残りがあるならば
この迷いの生存に戻らないことである。」──

 師(ブッダ)はこのように告げられた。
そうして、幸せな師はさらにまた次のように説かれた。

744 およそ苦しみが起るのは、すべて起動を縁として起る。
諸々の起動が消滅するならば、苦しみの生ずることもない。

745 「苦しみは起動の縁から起る」と、この禍いを知って
一切の起動を捨て去って、起動のないことにおいて解脱し

746 生存に対する妄執を断ち、心の静まった修行僧は
生をくり返す輪廻を超える。かれはもはや生存を受けることがない。

 「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを
正しく観察することができるのか?』と、もしもだけかに問われたならば
『できる』と答えなければならない。どうしてであるか?
『およそ苦しみが生ずるのは、すべて食料に縁って起るのである。』
というのが、一つの観察[法]である。
『しかしながら諸々の食料が残りなく離れ消滅するならば
苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。
このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで
専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちの
いずれか一つの果報が期待され得る
──すなわち現世における<さとり>か、或いは煩悩の残りがあるならば
この迷いの生存に戻らないことである。」──

 師(ブッダ)はこのように告げられた。
そうして、幸せな師はさらにまた次のように説かれた。

747 およそ苦しみが起るのは、すべて食料を縁として起る。
諸々の食料が消滅するならば、もはや苦しみの生ずることもない。

748 「苦しみは食料の縁から起る」と、この禍いを知って
一切の食料を熟知して、一切の食料にたよらない、

749 諸々の煩悩の汚れの消滅の故に無病の起ることを正しく知って
省察して(食料を)受用し、理法に住するヴェーダの達人は
もはや(迷いの生存者のうちに)数えられることがない。

 「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを
正しく観察することができるのか?』と、もしもだけかに問われたならば
『できる』と答えなければならない。どうしてであるか?
『およそ苦しみが生ずるのは、すべて動揺に縁って起るのである。』
というのが、一つの観察[法]である。
『しかしながら諸々の動揺が残りなく離れ消滅するならば
苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。
このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで
専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちの
いずれか一つの果報が期待され得る
──すなわち現世における<さとり>か、あるいは煩悩の残りがあるならば
この迷いの生存に戻らないことである。」──

 師(ブッダ)はこのように告げられた。
そうして、幸せな師はさらにまた次のように説かれた。

750 およそ苦しみが起るのは、すべて動揺を縁として起る。
諸々の動揺が消滅するならば、もはや苦しみの生ずることもない。

751 「苦しみは動揺の縁から起る」と、この禍いを知って
それ故に修行僧は(妄執の)動揺を捨て去って
諸々の潜在的形成力を制止して、無動揺・無執著で
よく気をつけて、遍歴すべきである。

 「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを
正しく観察することができるのか?』と、もしもだれかに問われたならば
『できる』と答えなければならない。どうしてであるか?
『従属するものは、たじろぐ。』というのが、一つの観察[法]である。
『従属しない者は、たじろかない』というのが第二の観察[法]である。
このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで
専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちの
いずれか一つの果報が期待され得る
──すなわち現世における<さとり>か、あるいは煩悩の残りがあるならば
この迷いの生存に戻らないことである。」──

 師(ブッダ)はこのように告げられた。
そうして、幸せな師はさらにまた次のように説かれた。

752 従属することのない人はたじろがない。
しかし従属することのある人は、この状態からあの状態へと執著していて
輪廻を超えることがない。

753 「諸々の従属の中に大きな危険がある」と、この禍いを知って
修行僧は、従属することなく、執著することなく、よく気をつけて
遍歴すべきである。

 「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを
正しく観察することができるのか?』と、もしもだけかに問われたならば
『できる』と答えなければならない。どうしてであるか?
『物理的領域よりも非物質的領域のほうが、よりいっそう静まっている』
というのが、一つの観察[法]である。
『非物質的領域よりも消滅のほうが、よりいっそう静まっている』
というのが第二の観察[法]である。
このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで
専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちの
いずれか一つの果報が期待され得る
──すなわち現世における<さとり>か、あるいは煩悩の残りがあるならば
この迷いの生存に戻らないことである。」──

 師(ブッダ)はこのように告げられた。
そうして、幸せな師はさらにまた次のように説かれた。

754 物質的領域に生まれる諸々の生存者と非物質的領域に住む
諸々の生存者とは、消滅を知らないので、再びこの世の生存に戻ってくる。

755 しかし物質的領域を熟知し、非物質的領域に安住し
消滅において解脱する人々は、死を捨て去ったのである。

 「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを
正しく観察することができるのか?』と、もしもだけかに問われたならば
『できる』と答えなければならない。どうしてであるか?
『神々と悪魔とともなる世界、道の人(沙門)・バラモン・神々
人間を含む諸々の生存者<これは真理である>と考えたものを
諸々の聖者は<これは虚妄である>と如実に正しい智慧をもって
よく観ずる』というのが、一つの観察[法]である。
『神々と悪魔とともなる世界、道の人・バラモン・神々
人間を含む諸々の生存者<これは虚妄である>と考えたものを
諸々の聖者は<これは真理である>と如実に正しい智慧をもって
よく観ずる』──これが第二の観察[法]である。
このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで
専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちの
いずれか一つの果報が期待され得る
──すなわち現世における<さとり>か、あるいは煩悩の残りがあるならば
この迷いの生存に戻らないことである。」──

 師(ブッダ)はこのように告げられた。
そうして、幸せな師はさらにまた次のように説かれた。

756 見よ、神々並びに世人は、非我なるものを我と思いなし
<名称と形態>(個体)に執著している。
「これこそ真実である」と考えている。

757 あるものを、ああだろう、こうだろう、と考えても
そのものは異なったものとなる。
何となれば、その(愚者の)その(考え)は虚妄なのである。
過ぎ去るものは虚妄なるものであるから。

758 安らぎは虚妄ならざるものである。
諸々の聖者はそれを真理であると知る。
かれらは実に真理をさとるが故に、
快をむさぼることなく平安に帰しているのである。

 「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを
正しく観察することができるのか?』と、もしもだれかに問われたならば
『できる』と答えなければならない。どうしてであるか?
『神々と悪魔とともなる世界、道の人(沙門)・バラモン・神々
人間を含む諸々の生存者<これは安楽である>と考えたものを
諸々の聖者は<これは苦しみである>と如実に正しい智慧をもって
よく観ずる』というのが、一つの観察[法]である。
『神々と悪魔とともなる世界、道の人・バラモン・神々
人間を含む諸々の生存者<これは苦しみである>と考えたものを
諸々の聖者は<これは安楽である>と如実に正しい智慧をもって
よく観ずる』──これが第二の観察[法]である。
このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで
専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちの
いずれか一つの果報が期待され得る
──すなわち現世における<さとり>か、あるいは煩悩の残りがあるならば
この迷いの生存に戻らないことである。」──

 師(ブッダ)はこのように告げられた。
そうして、幸せな師はさらにまた次のように説かれた。

759 有ると言われる限りの、色かたち、音声、味わい、香り
触れられるもの、考えられるものであって
好ましく愛すべく意に適うもの──

760 それらは実に、神々並びに世人には「安楽」であると
一般に認められている。また、それらが滅びる場合には
かれらはそれを「苦しみ」であると等しく認めている。

761 自己の身体(=個体)を断滅することが「安楽」である
と諸々の聖者は見る。(正しく)見る人々のこの(考え)は
一切の世間の人々と正反対である。

762 他の人々が「安楽」であると称するものを
諸々の聖者は「苦しみ」であると言う。
他の人々が「苦しみ」であると称するものを
諸々の聖者は「安楽」であると知る。
解し難き真理を見よ。無知なる人々はここに迷っている。

763 覆われた人々には闇がある。(正しく)見ない人々には暗黒がある。
善良な人々には開顕される。あたかも見る人々に
光明のあるようなものである。
理法がなにであるかを知らない獣(のような愚人)は
(安らぎの)近くにあっても、それを知らない。

764 生存の貪欲にとらわれて、生存の流れにおし流され
悪魔の領土に入っている人々には、この真理は実に覚りがたい。

765 諸々の聖者以外には、そもそも誰がこの境地を覚り得るのであろうか。
この境地を正しく知ったならば、煩悩の汚れのない者となって
まどかな平安に入るであろう。

 師(ブッダ)はこのように説かれた。
修行僧たちは悦んで師の諸説を歓喜して迎えた。
実にこの説明が述べられたときに、六十人の修行僧は執著がなくなって
心が汚れから解脱した。

[二種の観察]まとめの句

 真理(諦)と、生存の素因と、無明と、諸々の形成力と
第五に識別作用と、接触と、感受されるものと、妄執と、執著と
起動と、諸々の食と、動揺における震動と、物質的領域と
真理と苦とで、十六である。

<大いなる章>第三おわる

まとめの句

 出家と、つとめはげむことと、みごとに説かれたことと
スンダリカと、マーガと、サビヤと、セーラと、矢と、ヴァーセッタと
コーカーリヤと、ナーラカと、二種の観察と──

 これらの十二の経が「大いなる章」と言われる。

第四 八つの詩句の章

一、欲望

766 欲望をかなえたいと望んでいる人が、もしもうまくゆくならば
かれは実に人間の欲するものを得て、心に喜ぶ。

767 欲望をかなえたいと望み貪欲の生じた人が
もしも欲望をはたすことができなくなるならば
かれは、矢に射られたかのように悩み苦しむ。

768 足で蛇の頭を踏まないようにするのと同様に
よく気をつけて諸々の欲望を回避する人は、この世で執著をのり超える。

769 ひとが、田畑・宅地・黄金・牛馬・奴婢・傭人・婦女・親類
その他いろいろの欲望を貪り求めると

770 無力のように見えるもの(諸々の煩悩)がかれにうち勝ち
危い災難がかれをふみにじる。それ故に苦しみがかれにつき従う。
あたかも壊れた舟に水が侵入するように。

771 それ故に、人は常によく気をつけていて、諸々の欲望を回避せよ。
船のたまり水を汲み出すように、それらの欲望を捨て去って
激しい流れを渡り、彼岸に到達せよ。

二、洞窟についての八つの詩句

772 窟(自体)のうちにとどまり、執著し、多くの(煩悩)に覆われ
迷妄のうちに沈没している人
──このような人は、実に<遠ざかり離れること>(厭離)から
遠く隔たっている。
実に世の中にありながら欲望を捨て去ることは、容易ではないからである

773 欲求にもとづいて生存の快楽にとらわれている人々は、解脱しがたい。
他人が解脱させてくれるのではないからである。
かれらは未来をも過去をも顧慮しながら
これらの(目の前の)欲望または過去の欲望を貪る。

774 かれらは欲望を貪り、熱中し、溺れて、吝嗇で
不正になずんでいるが、(死時には)苦しみにおそわれて悲嘆する
──「ここで死んでから、われわれはどうなるのだろうか」と。

775 だから人はここにおいて学ぶべきである。
世間で「不正」であると知られているどんなことであろうとも
そのために不正を行なってはならない。
「ひとの命は短いものだ」と賢者たちは説いているのだ。

776 この世の人々が、諸々の生存に対する妄執にとらわれ
ふるえているのを、わたしは見る。
下劣な人々は、種々の生存に対する妄執を離れないで、死に直面して泣く。

777 (何ものかを)わがものであると執著して動揺している人々を見よ。
(かれらのありさまは)ひからびた流れの水の少ないところにいる
魚のようなものである。
これを見て、「わがもの」という思いを離れて行うべきである
──諸々の生存に対して執著することなしに。

778 賢者は、両極端に対する欲望を制し
(感官と対象との)接触を知りつくして、貪ることなく
自責の念にかられるような悪い行いをしないで
見聞することがらに汚されない。

779 想いを知りつくして、激流を渡れ。
聖者は、所有したいという執著に汚されることなく
(煩悩の)矢を抜き去って、勤め励んで行い
この世もかの世も望まない。

三、悪意についての八つの詩句

780 実に悪意をもって(他人を)誹る人々もいる。
また他人から聞いたことを真実だと思って(他人を)誹る人々もいる。
誹ることばが起こっても、聖者はそれに近づかない。
だから聖者は何ごとにも心の荒むことがない。

781 欲にひかれて、好みにとらわれている人は
どうして自分の偏見を超えることができるだろうか。
かれは、みずから完全であると思いなしている。
かれは知るにまかせて語るであろう。

782 人から尋ねられたのではないのに、他人に向かって
自分が戒律や道徳を守っていると言いふらす人は
自分で自分のことを言いふらすのであるから
かれは「下劣な人」である。と真理に達した人々は語る。

783 修行僧が平安となり、心が安静に帰して、戒律に関して
「わたしはこのようにしている」といって誇ることがないならば
世の中のどこにいても煩悩のもえ盛ることがないのであるから
かれは<高貴な人>である、と真理に達した人々は語る。

784 汚れた見解をあらかじめ設け、つくりなし、偏重して
自分のうちにのみ勝れた実りがあると見る人は
ゆらぐものにたよる平安に執著しているのである。

785 諸々の事物に関する固執(これはこれこれのものであると)
確かに知って、自己の見解に対する執著を超越することは容易ではない。
故に人はそれらの(偏執の)住居のうちにあって
ものごとを斥け、またこれを執る。

786 邪悪を掃い除いた人は、世の中のどこにいても
さまざまな生存に対してあらかじめいだいた偏見が存在しない。
邪悪を掃い除いた人は、いつわりと驕慢とを捨て去っているが
どうして(輪廻に)赴くであろうか?
かれはもはや頼り近づくものがないのである。

787 諸々の事物に関してたより近づく人は
あれこれの議論(誹り、噂さ)を受ける。
(偏見や執著に)たより近づくことのない人を、どの言いがかりによって
どのように呼び得るであろうか?
かれは執することもなく、捨てることもない。
かれはこの世にありながら一切の偏見を掃い去っているのである。

四、清浄についての八つの詩句

788 「最上で無病の、清らかな人をわたくしは見る。
人が全く清らかになるのは見解による」と
このように考えることを最上であると知って
清らかなことを観ずる人は、(見解を、最上の境地に達し得る)智慧である。

789 もしも人が見解によって清らかになり得るのであるならば
あるいはまた人が知識によって苦しみを捨て得るのであるならば
それは煩悩にとらわれている人が(正しい道以外の)他の方法によっても
清められることになるであろう。
このように語る人を「偏見ある人」と呼ぶ。

790 (真の)バラモンは、(正しい道の)ほかには
見解・伝承の学問・戒律・道徳・思想のうちのどれによっても
清らかになるとは説かない。
かれは禍福に汚されることなく、自我を捨て
この世において(禍福の因を)つくることがない。

791 前の(師など)を捨てて後の(師など)にたより
煩悩の動揺に従っている人々は、執著をのり超えることがない。
かれらは、とらえては、また捨てる。
猿が枝をとらえて、また放つようなものである。

792 みずから誓戒をたもつ人は、思いに耽って
種々多様なことをしようとする。
しかし智慧ゆたかな人は、ヴェーダ(実践的認識)によって知り
真理を理解して、種々多様なことをしようとしない。

793 かれは一切の事物について、見たり学んだり思索したことを制し
支配している。このように観じ、覆われることなしにふるまう人を
この世でどうして妄想分別させることができようか。

794 かれははからいをなすことなく、(何物かを)特に重んずることもなく
「これこそ究極の清らかなことだ」と語ることもない。
結ばれた執著のきずなをすて去って
世間の何ものについても願望を起すことがない。

795 (真の)バラモンは、(煩悩の)範囲をのり超えていてる。
かれが何ものかを知りあるいは見ても、執著することがない。
かれは欲を貪ることなく、また離欲を貪ることもない。
かれは(この世ではこれが最上のものである)と固執することもない。

五、最上についての八つの詩句

796 世間では、人は諸々の見解のうちで勝れているとみなす見解を
「最上のもの」であると考えて
それよりも他の見解はすべて「つまらないものである」と説く。
それ故にかれは諸々の論争を超えることがない。

797 かれ(=世間の思想家)は、見たこと・学んだこと
戒律や道徳・思索したことについて
自分の奉じていることのうちのみすぐれた実りを見、そこで
それだけに執著して、それ以外の他のものを全てつまらぬものと見なす。

798 ひとが何かものに依拠して「その他のものはつまらぬものである」
と見なすならば、それは実にこだわりである、と
<真実に達した人々>は語る。
それが故に修行者は、見たこと・学んだこと・思索したこと
または戒律や道徳にこだわってはならない。

799 智慧に関しても、戒律や道徳に関しても
世間において偏見をかまえてはならない。
自分を他人と「等しい」と示すことなく、他人より「劣っている」とか
或いは「勝れている」とか考えてはならない。

800 かれは、すでに得た(見解)[先入見]を捨て去って
執著することなく、学識に関しても特に依拠することをしない。
人々は(種々異なった見解に)分かれているが
かれは実に党派に盲従せず、いかなる見解をもそのまま信ずることがない。

801 かれはここで、両極端に対し、種々の生存に対し
この世についても、来世についても、願うことがない。
諸々の事物に関して断定を下して得た固執の住居は
かれには何も存在しない。

802 かれはこの世において、見たこと、学んだこと
あるいは思索したことに関して、微塵ほどの妄想をも構えていない。
いかなる偏見をも執することのないそのバラモン
この世においてどうして妄想分別させることができるであろうか?

803 かれらは、妄想分別をなすことなく
(いずれか一つの偏見を)特に重んずるということもない。
かれらは、諸々の教義のいすれかをも受け入れることもない。
バラモンは戒律や道徳によって導かれることもない。
このような人は、彼岸に達して、もはや還ってこない。

六、老い

804 ああ短いかな、人の生命よ。百歳にたっせずして死す。
たといそれよりも長く生きたとしても、また老衰のために死ぬ。

805 人々は「わがものである」と執著した物のために悲しむ。
(自己の)所有しているものは常住ではないからである。
この世のものはただ変滅するものである、と見て
在家にとどまってはならない。

806 人が「これはわがものである」と考える物
──それは(その人の)死によって失われる。
われに従う人は、賢明にこの理を知って
わがものという観念に屈してはならない。

807 夢の中で会った人でも、目がさめたならば
もはやかれを見ることができない。
それと同じく、愛したひとでも死んでこの世を去ったならば
もはや再び見ることはできない。

808 「何の誰それ」という名で呼ばれ、かつては見られ
また聞かれた人でも、死んでしまえば
ただ名が残って伝えられるだけである。

809 わがものとして執著したものを貪り求める人々は
憂いと悲しみと慳(物惜し)みとを捨てることがない。
それ故に諸々の聖者は、所有を捨てて行って
安穏(あんのん)をみたのである。

810 遠ざかり退いて行する修行者は、独り離れて座所に親しみ近づく。
迷いの生存の領域のうちに自己を現さないのが
かれにふさわしいことであるといわれる。

811 聖者はなにものにも滞ることなく、愛することもなく
憎むこともない。悲しみも慳みもかれを汚すことがない。
譬えば(蓮の)葉の上の水が汚されないようなものである。

812 たとえば蓮の上の水滴、あるいは蓮華の上の水が汚されないように
それと同じく聖者は、見たり学んだり思索したどんなことについても
汚されることがない。

813 邪悪を掃い除いた人は、見たり学んだり思索したどんなことでも
特に執著して考えることがない。
かれは他のものによって清らかになろうとは望まない。
かれは貪らず、また嫌うこともない。

七、ティッサ・メッテイヤ