常に死を想う

◯100%の死

 自分が死ぬという事
100%確実に死ぬという事を
わきまえた時から
真の修行が始まる。
 人は自分の死を認めなければ
現実を観る事が出来ず
いつまでも観念の遊戯を
繰り返すだけだ。
 死に行く人間が
それをわきまえず
何を語り何を取り繕うとも
それは現実から離れている
夢幻のようなもの。

 ブッダも四門を出て
老病死に苦しむ人間の姿を知り
世を捨てる決意をされたように
避ける事の出来ない現実を知って
はじめて人は、
悟りを得ようと正しく想う。

 人間には老病死という限界がある。
それが正しく現実の姿。
 どれほど高尚な事を語ろうと
人はこれらの現実に屈服し
やがて屍を晒す。
 それは全ての生き物
動物や昆虫などとも変わりは無い。
 老病死がある限り人間も
無力な生物の一つに過ぎない。

◯死の法則を知り、乗り越える

死は誰もが免れず
平等に来るもの。
 自分は死なないなどと
思っていれば
死ぬ時に後悔する。
 又、死が怖いから或いは
わからないからと
考えないようにしていれば
それもまた
後悔することになる。

 それは例えば
目の前に車が暴走してきた時に
臆病な者が眼をつぶって
止まってしまうのと同じ。
 そのようにすれば
恐れからは逃避できるが
目の前の危険からは
逃れられない。
 本当に危険から逃れるためには
それがどのように動いているのかを
眼を見開いて
見極めなければならない。
 
 死もまた同じように
それ自体をよく観察して
見極めれば
超えることも
利用することも可能。
 それが死の法則を知り
乗り超えること。

 それでは死の法則とは
どのような性質のものなのか
わかり易く書く。

1 死は誰にでも
  平等にやってくる
2 死に拠って
  今まで自分がしてきたことは
  中断される
3 誰もが死に拠って
  金や名声や権力などを
  捨てなければならない
4 死に拠って
  全ての人と物理的に
  別れなければならならい

 死とは
 このような性質のある法則といえる。
 1番目の誰にでもやってくるというのは
 誰でもわかる。  
 事故とか病で死は
 明日にもやってくるかもしれない。
 そうでなくとも
 寿命で死ぬこともあるかもしれない。
 そのように確実に来ることを知って
 覚悟しなければならない。

 2番目の死に拠って
 仕事が中断されるというのも理性ではわかる。
 しかし感情ではわからない者達もいるだろう。
 年をとっても仕事にしがみつく者は多く居る。
 いつまで自分が元気に
 仕事が出来るという考えでいると
 死後に遺族が困ったりする。
 そのような者は
 死から逃避していたといえる。

 3番目の誰もが死に拠って
 全てを捨てなければならないということは
 誰もが理解出来る筈であるが
 実際は大多数の者がわかっていない。
 まるで金や権力や名声が
 永遠に保持できるかのように
 多くの者が貪欲に求めている。
 そのために法律を破り
 他人を苦しめることさえ
 平気でしたりしている。
 いずれは全て
 捨ててしまうもののために
 そのような行いをするのは
 実に愚かなこと。
 そのような者達は
 自ら苦しみを
 呼び寄せているといえる。

 4番目の誰もが物理的に
 全ての人と別れなければならないというのも
 感情的には理解し難いだろう。
 愛する家族や友人達等は
 感情的には永遠に
 変らないように見える。
 しかし、いずれは
 別れなければならない。
 他人に執着すれば
 いずれは苦がやってくる。

 実にこのように死の法則は
 人を苦しめるためのものに見える。
 しかし他の法則と同じように
 死の法則も叡智によって
 乗り越える方法がある。
 それが悟りを得る法だ。
 悟りを得る法を実践すれば
 死も乗り越えられる。

◯不死の境地

 死とは肉体の働きが停止すること。
それに伴って肉体に拠っていた
全ての能力もなくなる。
思考とか感情とか感覚とか
認識などもなくなる。
 それらが自分であると
思っていたならば
死は自分の消滅であり
絶望しかない現象だ。

 しかし肉体と
その能力だけが自分であり
その他に自分は無いという
観念に囚われていなければ
死は消滅ではなく絶望でもない。
 そのように自分という
観念を正しく捉える事で
死を超越する。

 実際に肉体が自分であり
自分は肉体しかないという
観念は謬見でしかない。
 人の肉体は呼吸や食事や
飲み物を通して物理的にも
全てと繋がっている。
 それが個体であり個我であり
他のものと分別された自分である
ということはありえない。

 例えば呼吸ならば
鼻から入った空気が
いきなり自分になり
鼻から出て行けば
自分ではなくなる
ということもない。
 自分とはそのように
はっきりした境界を持たず
あいまいな観念を
習慣によって認識しているだけだ。
 自分とはどのような存在であり
どこからどこまでが自分であり
何があれば自分と呼べるのかと
知らなければ
そのあいまいな観念に
囚われ続けることになる。

 瞑想と観察は
そのあいまいな観念を明確にして
それが自分ではないことに
気付く方法だ。
 自分というものを
明確に観るように努めることで
それが観念であることに気付く。
 自分とは主体ではなく
実際にあるものではなく
習慣によって形成された
観念であると。
 境界さえも不明確な観念が
どうして全てのものごとを
認識する主体であり
自分であるという事がありえるか。

 そのようにして
自分という観念から
離れたならば
もはや死もあり得ない。
 自分が無いのに
自分の消滅はあり得ない。

◯悟りとは死を超える道

人はどのようにして
死を克服するのかといえば
それは誤まった認識を
排除することで可能になる。
 誤まった認識とは
記憶による認識。
 その認識に拠って
自分という謬見も起こる。

 自分という個我がある
他からはなれた実体としての
個体がある
独立した主体がある
というのが謬見。
 その謬見から老病死や
他の一切の苦も起こる。
 
 この謬見と認識の誤りから
抜けることが出来れば
死を克服できる。
 それらのために
この肉体だけが自分であり
自分の全てであると
誤認していたから死もあった。
 それらが無ければ
もはや死も無い。

 例えば大樹が自分を
末端の木の葉の一枚と誤認すれば
それが落ちる時に
自分全体がなくなる死と
死の恐れもあると誤認する。
 大樹の全てが
自分であると知れば
一枚の木の葉が落ちても
樹の自然な働きの
一つであると理解して
自分が無くなる死も
死の恐れも無くなる。

 そのように人も
肉体が自分であり
自分の全てであると
誤認していれば
死があるが
全てが自分であるという
正しい認識を感得すれば
死も無くなる。

ダンマパダ2

第16章 愛するもの
第17章 怒り
第18章 汚れ
第19章 道を実践する人
第20章 道
第21章 さまざまなこと
第22章 地獄
第23章 象
第24章 愛執
第25章 修行僧
第26章 バラモン


第十六章 愛するもの 

209  道に違(たご)うたことになじみ
道に順(したが)ったことにいそしまず
目的を捨てて快いことだけを取る人は
みずからの道に沿って進む者を羨むに至るであろう。

210  愛する人と会うな。愛する人に会わないのは苦しい。
また愛しない人に会うのも苦しい。

211  それ故に愛する人をつくるな。愛する人を失うのはわざわいである。
愛する人も憎む人もいない人々には、わずらわしの絆が存在しない。

212  愛するものから憂いが生じ、愛するものから恐れが生ずる。
愛するものを離れたならば、憂いは存在しない。
どうして恐れることがあろうか?

213  愛情から憂いが生じ、愛情から恐れが生ずる。
愛情を離れたならば憂いが存在しない。どうして恐れることがあろうか?

214 快楽から憂いが生じ、快楽から恐れが生じる。
快楽を離れたならば憂いが存在しない。どうして恐れることがあろうか?

215  欲情から憂いが生じ、欲情から恐れが生じる。
欲情を離れたならば、憂いは存しない。どうして恐れることがあろうか。

216  妄執から憂いが生じ、妄執から恐れが生じる。
妄執を離れたならば、憂いは存しない。どうして恐れることがあろうか。

217  徳行と見識とをそなえ、法にしたがって生き、真実を語り
自分のなすぺきことを行なう人は、人々から愛される。

218  ことばで説き得ないもの(ニルヴァーナ)に達しようとする志を起し
意(おもい)はみたされ、諸の愛欲に心の礙げられることのない人は
(流れを上る者)とよばれる。

219  久しく旅に出ていた人が遠方から無事に帰って来たならば
親戚・友人・親友たちはかれが帰って来たのを祝う。

220 そのように善いことをしてこの世からあの世に行った人を
善業が迎え受ける___親族が愛する人が帰って来たのを
迎え受けるように。

第十七章 怒り 

221  怒りを捨てよ。慢心を除き去れ。いかなる束縛をも超越せよ。
名称と形態とにこだわらず、無一物となった者は
苦悩に追われることがない。

222 走る車を抑えるようにむらむらと起る怒りをおさえる人
___かれをわれは<御者>とよぶ。
他の人はただ手綱を手にしているだけである。
(<御者>とよぶにはふさわしくない)

223  怒らないことによって怒りにうち勝て。
善いことによって悪いことにうち勝て。
わかち合うことによって物惜しみにうち勝て。
真実によって虚言の人にうち勝て。

224  真実を語れ。怒るな。請われたならば、乏しいなかから与えよ。
これらの三つの事によって(死後には天の)神々のもとに至り得るであろう。

225  生きものを殺すことなく、つねに身をつつしんで聖者は
不死の境地(くに)におもむく。そこに至れば、憂えることがない。

226  ひとがつねに目ざめていて、昼も夜もつとめ学び
ニルヴァーナを得ようとめざしているならば
もろもろの汚れは消え失せる。

227 アトゥラよ。これは昔にも言うことであり
いまに始まることでもない。
沈黙している者も非難され、多く語る者も非難され
すこしく語る者も非難される。世に非難されない者はいない。

228  ただ誹られるだけの人、またただ褒められるだけの人は
過去にもいなかったし、未来にもいないであろう、現在にもいない。

229 もしも心ある人が日に日に考察して
「この人は賢明であり、行いに欠点がなく
智慧と徳行とを身にそなえている」といって称讃するならば

230 その人を誰が非難し得るだろうか?
かれはジャンブーナダ河から得られる黄金でつくった
金貨のようなものである。神々もかれを称讃する。
梵天でさえもかれを称讃する。

231  身体がむらむらするのを、まもり落ち着けよ。
身体について慎んでおれ。
身体による悪い行ないを捨てて、身体によって善行を行なえ。

232  ことばがむらむらするのを、まもり落ち着けよ。
ことばについて慎んでおれ。
語(ことば)による悪い行ないを捨てて、語によって善行を行なえ。

233  心がむらむらするのを、まもり落ち着けよ。心について慎んでおれ。
心による悪い行ないを捨てて、心によって善行を行なえ。

234  落ち着いて思慮ある人は身をつつしみ
ことばをつつしみ、心をつつしむ。
このようにかれれれらは実によく己れをまもっている。

第十八章 汚れ 

235 汝はいまや枯葉のようなものである。
閻魔王の従卒もまた汝はいま死出の門路に立っている。
しかし汝には資糧(かて)さえも存在しない。

236  だから、自己のよりどころをつくれ。すみやかに努めよ。
賢明であれ。汚れをはらい、罪過がなければ、天の尊い処に至るであろう。

237  汝の生涯は終りに近づいた。汝は、閻魔王の近くにおもむいた。
汝には、みちすがら休らう宿もなく、旅の資糧も存在しない。

238  だから、自己のよりどころをつくれ。すみやかに努めよ。
賢明であれ。汚れをはらい、罪過がなければ
汝はもはや生と老いとに近づかないであろう。

239  聡明な人は順次に少しずつ、一刹那ごとに、おのが汚れを除くべし
___鍛冶工が銀の汚れを除くように。

240  鉄から起った錆が、それから起ったのに
鉄自身を損なうように悪をなしたならば、
自分の業が罪を犯した人を悪いところ(地獄)にみちびく。

241  読誦しなければ聖典が汚れ、修理しなければ家屋が汚れ
身なりを怠るならば容色が汚れ、なおざりになるならば
つとめ慎しむ人が汚れる。

242  不品行は婦女の汚れである。
もの惜しみは、恵み与える人の汚れである。
悪事は、この世においてもかの世においても(つねに)汚れである。

243  この汚れよりもさらに甚だしい汚れがある。
無明こそ最大の汚れである。
修行僧らよ。この汚れを捨てて、汚れ無き者となれ。

244  恥をしらず、烏のように厚かましく、図々しく、ひとを責め
大胆で、心のよごれた者は、生活し易い。

245  恥を知り、常に清きをもとめ、執著をはなたれ、つつしみ深く
真理を見て清く暮す者は、生活し難い。

246/247  生きものを殺し、虚言(いつわり)を語り
世間において与えられないものを取り、他人の妻を犯し
穀酒・果実酒に耽溺する人は
この世において自分の根本を掘りくずす人である。

248  人よ。このように知れ___慎みがないのは悪いことである。
___貪りと不正とのゆえに汝がながく苦しみを受けることのないように。

249 ひとは、信ずるところにしたがって
きよき喜びにしたがって、ほどこしをなす。
だから、他人のくれた食物や飲料に満足しない人は
昼も夜も心の安らぎを得ない。

250  もしひとがこの(不満の思い)を絶ち、根だやしにしたならば
かれは昼も夜も心のやすらぎを得る。

251  情欲にひとしい火は存在しない。
不利な骰(さい)の目を投げたとしても、怒りにひとしい不運は存在しない。
迷妄にひとしい網は存在しない。妄執にひとしい河は存在しない。

252 他人の過失は見やすいけれど、自己の過失は見がたい。
ひとは他人の過失を籾殻のように吹き散らす。
しかし自分の過失は、隠してしまう
___狡猾な賭博師が不利な骰(さい)の目をかくしてしまうように。

253  他人の過失を探し求め、つねに怒りたける人は
煩悩の汚れが増大する。かれは煩悩の汚れの消滅から遠く隔っている。

254  虚空には足跡が無く、外面的なことを気にかけるならば
<道の人>ではない。
ひとびとは汚れのあらわれをたのしむが
修行完成者は汚れのあらわれをたのしまない。

255  虚空には足跡が無く、外面的なことを気にかけるならば
<道の人>ではない。
造り出された現象が常住であることは有り得ない。
真理をさとった人々(ブッダ)は、動揺することがない。

第十九章 道を実践する人

256  あらあらしく事がらを処理するからとて、公正な人ではない。
賢明であって、義と不義との両者を見きわめる人。

257 粗暴になることなく、きまりにしたがって
公正なしかたで他人を導く人は、正義を守る人であり
道を実践する人であり、聡明な人であるといわれる。

258  多く説くからとて、それゆえにかれが賢明なのではない。
こころおだやかに、怨むことなく、恐れることのない人
___かれこそ<賢者>と呼ばれる。

259  多く説くからとて、それゆえにかれが
道を実践している人なのではない。
たとい教えを聞くことが少なくても、身をもって真理を見る人
怠って道からはずれることの無い人
___かれこそ道を実践している人である。

260  頭髪が白くなったからとて<長老>なのではない。
ただ年をとっただけならば「空しく老いぼれた人」と言われる。

261 誠あり、徳あり、慈しみがあって、傷わず、つつしみあり
みずからととのえ、汚れを除き、気をつけている人こそ
「長老」と呼ばれる。

262  嫉みぶかく、吝嗇(りんしょく=けち)で、偽る人は
ただ口先だけでも、美しい容貌によっても、「端正な人」とはならない。

263 これを断ち、根絶やしにし、憎しみをのぞき、聡明である人
___かれこそ「端正な人」とよばれる。

264 頭を剃ったからとて、いましめをまもらず、偽りを語る人は
<道の人>ではない。
欲望と貪りにみちている人が、どうして<道の人>であろうか?

265 大きかろうとも小さかろうとも悪をすべてとどめた人は
もろもろの悪を静め滅ぼしたのであるから、<道の人>と呼ばれる。

266  他人に食を乞うからとて、それだけでは<托鉢僧>なのではない。
汚らわしい行いをしているならば、それでは<托鉢僧>ではない。

267 この世の福楽も罪悪も捨て去って、清らかな行いを修め
よく思慮して世に処しているならば、かれこそ<托鉢僧>と呼ばれる。

268/269  ただ沈黙しているからとて
愚かに迷い無智なる人が<聖者>なのではない。
秤を手にもっているように、いみじきものを取り
もろもろの悪を除く賢者こそ<聖者>なのである。
かれはそのゆえに聖者なのである。
この世にあって善悪の両者を(秤りにかれてはかるように)
よく考える人こそ<聖者>とよばれる。

270 生きものを害うからとて<聖者>なのではない。
生きとし生けるものどもを害わないので<聖者>と呼ばれる。

271/272  わたしは、出離の楽しみを得た。
それは凡夫の味わい得ないものである。
それは、戒律や誓いだけによっても、また博学によっても
また瞑想を体現しても、またひとり離れて臥すことによっても
得られないものである。修行僧よ。
汚れが消え失せない限りは、油断するな。 

第二十章 道 

273  もろもろの道のうちでは
<八つの部分よりなる正しい道>が最もすぐれている。
もろもろの真理のうちでは<四つの句>(四諦)がもっともすぐれている。
もろもろの徳のうちでは<情欲を離れること>が最もすぐれている。
人々のうちで<眼ある人>(ブッダ)が最もすぐれている。

274 これこそ道である。
(真理を)見るはたらきを清めるためには、この他に道は無い。
汝らはこの道を実践せよ。
これこそ悪魔を迷わして(打ちひしぐ)ものである。

275  汝らがこの道を行くならば、苦しみをなくすことができるであろう。
(棘が肉に刺さったので)矢を抜いて癒す方法を知って
わたくしは汝らにこの道を説いたのだ。

276 汝らは(みずから)つとめよ。
もろもろの如来(修行を完成した人)は(ただ)教えを説くだけである。
心をおさめて、この道を歩む者どもは、悪魔の束縛から脱れるであろう。

277  「一切の形成されたものは無常である」(諸行無常)と
明らかな智慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。
これこそ人が清らかになる道である。

278  「一切の形成されたものは苦しみである」(一切皆苦)と
明らかな智慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。
これこそ人が清らかになる道である。

279  「一切の事物は我ならざるものである」(諸法無我)と
明らかな智慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。
これこそ人が清らかになる道である。

280  起きるべき時に起きないで、若くて力があるのに怠りなまけていて
意志も思考も薄弱で、怠惰でものをいう人は
明らかな智慧によって道を見出すことがない。

281  ことばを慎しみ、心を落ち着けて慎しみ
身に悪を為してはならない。
これらの三つの行ないの道を浄くたもつならば
仙人(仏)の説きたもうた道を克ち得るであろう。

282  実に心が統一されたならば、豊かな智慧が生じる。
心が統一されないならば、豊かな智慧がほろびる。
生じることと滅びることとのこの二種の道を知って
豊かな智慧が生ずるように自己をととのえよ。

283 一つの樹を伐るのではなくて、(煩悩の)林を伐れ。
危険は林から生じる。
(煩悩の)林とその下生えとを切って、林(煩悩)から離れた者となれ。
修行僧らよ。

284 たとい僅かであろうとも、男の女に対する欲望が断たれない間は
その男の心は束縛されている___乳を吸う子牛が母牛を恋い慕うように。

285 自己の愛執を断ち切れ___池の水の上に出て来た秋の蓮を
手で断ち切るように。静かなやすらぎに至る道を養え。
めでたく行きし人(仏)は安らぎを説きたもうた。

286  「わたしは雨期にはここに住もう。冬と夏とにはここに住もう」と
愚者はこのようにくよくよと慮って、死が迫って来るのに気がつかない。

287  子どもや家畜のことに気を奪われて心がそれに執著している人を
死はさらって行く___眠っている村を大洪水が押し流すように。

288  子も救うことができない。父も親戚もまた救うことができない。
死に捉えられた者を、親族も救い得る能力がない。

289 心ある人はこの道理を知って、戒律をまもり
すみやかにニルヴァーナに至る道を清くせよ。

第二十一章 さまざまなこと 

290 つまらぬ快楽を捨てることによって
広大なる楽しみを見ることができるのなら
心ある人は広大な楽しみをのぞんで、つまらぬ快楽を捨てよ。

291 他人を苦しめることによって自分の快楽を求める人は
怨みの絆にまつわれて、怨みから免れることができない。

292  なすべきことをなおざりにし、なすべからざることをなす
遊びたわむれ放逸なる者どもには、汚れが増す。

293  常に身体(の本性)を思いつづけて、為すべからざることを為さず
為すべきことを常に為して、心がけて、みずから気をつけている人々には
もろもろの汚れがなくなる。

294 (「妄愛」という)母と(「われありという慢心」である)父とをほろぼし
(永久に存在するという見解と滅びて無くなるという見解という)
二人の武家の王をほろぼし
(主観的機官と客観的対象とあわせて十二の領域である)国土と
(「喜び貪り」という)従臣とをほろぼして、バラモンは汚れなしにおもむく。

295  (「妄愛」という)母と(「われありという慢心」である)父とを
ほろぼし、(永久に存在するという見解と滅びて無くなるという見解という)
二人の、学問を誇るバラモン王をほろぼし
第五には(「疑い」という)虎をほろぼして、バラモンは汚れなしにおもむく。

296  ゴータマの弟子は、いつもよく覚醒していて
昼も夜も常に仏を念じている。

297  ゴータマの弟子は、いつもよく覚醒していて
昼も夜も常に法を念じている。

298 ゴータマの弟子は、いつもよく覚醒していて
昼も夜も常にサンガ(修行者のつどい)を念じている。

299  ゴータマの弟子は、いつもよく覚醒していて
昼も夜も常に身体(の真相)を念じている。

300  ゴータマの弟子は、いつもよく覚醒していて
その心は昼も夜も不傷害を楽しんでいる。

301  ゴータマの弟子は、いつもよく覚醒していて
その心は昼も夜も瞑想を楽しんでいる。

302  出家の生活は困難であり、それを楽しむことは難しい。
在家の生活も困難であり、家に住むのも難しい。
心を同じくしない人々と共に住むのも難しい。
(修行僧が何かを求めて)旅に出て行くと、苦しみに遇う。
だから旅に出るな。また苦しみに遇うな。

303  信仰あり、徳行そなわり、名声と繁栄を受けている人は
いかなる地方におもむこうとも、そこで尊ばれる。

304  善き人々は遠くにいても輝く___雪を頂く高山のように。
善からぬ人々は近くにいても見えない___夜陰に放たれた矢のように。

305  ひとり坐し、ひとり臥し、ひとり歩み、なおざりになることなく
わが身をととのえて、林のなかでひとり楽しめ。

第二十二章 地獄 

306 いつわりを語る人、あるいは自分でしておきながら
「わたしはしませんでした」と言う人
___この両者は死後にはひとしくなる
___来世では行ないの下劣な業をもった人々なのであるから。 

307 袈裟を頭から纒っていても、性質が悪く、つつしみのない者が多い。
かれらは、悪いふるまいによって、悪いところに(地獄)に生まれる。

308  戒律をまもらず、みずから慎むことがないのに
国の信徒の施しを受けるよりは
火炎のように熱した鉄丸を食らうほうがましだ。

309  放逸で他人の妻になれ近づく者は
四つの事がらに遭遇する___すなわち
禍をまねき、臥して楽しからず
第三に非難を受け、第四に地獄に墜ちる。

310  禍をまねき、悪しきところ(地獄)に墜ち
相ともにおびえた男女の愉楽はすくなく
王は重罰を課する。それ故にひとは
他人になれ近づくな。

311  茅草でも、とらえ方を誤ると、手のひらを切るように
修行僧の行も、誤っておこなうと、地獄にひきずりおろす。

312 その行いがだらしなく、身のいましめが乱れ
清らかな行いなるものもあやしげであるならば
大きな果報はやって来ない。

313 もしも為すべきことであるならば、それを為すべきである。
それを断固として実行せよ。
行いの乱れた修行者はいっそう多く塵をまき散らす。

314  悪いことをするよりは、何もしないほうがよい。
悪いことをすれば、後で悔いる。
単に何かの行為をするよりは、善いことをするほうがよい。
なしおわって、後で悔いがない。

315 辺境にある、城壁に囲まれた都市が内も外も守られているように
そのように自己を守れ。瞬時も空しく過ごすな。
時を空しく過した人々は地獄に墜ちて、苦しみ悩む。

316  恥じなくてよいことを恥じ、恥ずべきことを恥じない人々は
邪な見解をいだいて、悪いところ(地獄)におもむく。

317 恐れなくてもよいことに恐れをいだき
恐れねばならぬことに恐れをいだかない人々は、邪な見解をいだいて
悪いところ(地獄)におもむく。

318  避けねばならないことを避けなくてもよいと思い
避けてはならぬ(必ず為さねばならぬ)ことを避けてもよいと考える人々は
邪な見解をいだいて、悪いところ(地獄)におもむく。

319 遠ざけるべきこと(罪)を遠ざけるべきであると知り
遠ざけてはならぬ(必らず為さねばならぬ)ことを
遠ざけてはならぬと考える人々は、正しい見解をいだいた
善いところ(天上)におもむく。

第二十三章  象

320  戦場の象が、射られた矢にあたっても堪え忍ぶように
われらはひとのそしりを忍ぼう。
多くの人は実に性質(たち)が悪いからである。

321 馴らされた象は、戦場にも連れて行かれ、王の乗りものとなる。
世のそしりを忍び、自らをおさめた者は
人々の中にあっても最上の者である。

322  馴らされた騾馬は良い。インダス河のほとりの血統よき馬も良い。
クンジャラという名の大きな象も良い。
しかし自己をととのえた人はそれらよりもすぐれている。

323 何となれば、これらの乗物によっては
未到の地(ニルヴァーナ)に行くことはできない。
そこへは、慎しみある人が、おのれ自らをよくととのえておもむく。

324 「財を守る者」という名の象は、発情期にこめかみから
液汁をしたたらせて強暴になっているときは、いかんとも制し難い。
捕らえられると、一口の食物も食べない。象は象の林を慕っている。

325  大食いをして、眠りをこのみ、ころげまわって寝て
まどろんでいる愚鈍な人は、大きな豚のように糧を食べて肥り
くりかえし母胎に入って(迷いの生存をつづける)。

326  この心は、以前には、望むがままに、欲するがままに
快きがままに、さすらっていた。
今やわたくしはその心をすっかり抑制しよう___象使いが鉤をもって
発情期に狂う象を全くおさえつけるように。

327 つとめはげむのを楽しめ。おのれの心を護れ。
自己を難処から救い出せ___泥沼に落ち込んだ象のように。

328  もしも思慮深く聡明でまじめな生活をしている人を
伴侶として共に歩むことができるならば、あらゆる危険困難に打ち克って
こころ喜び、念いをおちつけて、ともに歩め。

329  しかし、もしも思慮深く聡明でまじめな生活をしている人を
伴侶として共に歩むことができないならば、国を捨てた国王のように
また林の中の象のように、ひとり歩め。

330  愚かな者を道伴れとするな。独りで行くほうがよい。
孤独(ひとり)で歩め。悪いことをするな。求めるところは少なくあれ
___林の中にいる象のように。

331  事がおこったときに、友だちのあるのは楽しい。
(大きかろうとも、小さかろうとも)どんなことにでも満足するのは楽しい。
善いことをしておけば、命の終るときに楽しい。
(悪いことをしなかったので)、あらゆる苦しみ(の報い)を除くことは楽しい。

332  世に母を敬うことは楽しい。また父を敬うことは楽しい。
世に修行者を敬うことは楽しい。世にバラモンを敬うことは楽しい。

333  老いた日に至るまで戒めをたもつことは楽しい。
信仰が確立していることは楽しい。明らかな智慧を体得することは楽しい。
もろもろの悪事をなさないことは楽しい。

第二十四章 愛執

334 恣(ほしいまま)のふるまいをする人には
愛執が蔓草(つるくさ)のようにはびこる。
林の中で猿が果実を探し求めるように
(この世からかの世へと)あちこちにさまよう。

335 この世において執著のもとであるこのうずく
愛欲のなすがままである人は、もろもろの憂いが増大する
___雨が降ったあとにはビーラナ草がはびこるように。

336  この世において如何ともし難いこのうずく愛欲を断ったならば
憂いはその人から消え失せる___水の滴が蓮華から落ちるように。

337  さあ、みんなに告げます。___ここに集まったみなさんに幸あれ。
欲望の根を掘れ___(香しい)ウシーラ根を求める人が
ビーラナ草を掘るように。葦が激流に砕かれるように
魔にしばし砕かれてはならない。

338  たとえ樹を切っても、もしも頑強な根を断たなければ
樹が再び成長するように、妄執(渇愛)の根源となる
潜勢力をほろぼさないならば、この苦しみはくりかえし現われ出る。

339 快いものに向って流れる三十六の激流があれば、その波浪は
悪しき見解をいだく人を漂わし去る
___その波浪とは貪欲にねざした想いである。

340  (愛欲の)流れは至るところに流れる。
(欲情の)蔓草は芽を生じつつある。その蔓草が生じたのを見たならば
智慧によってその根を断ち切れ。

341  人の快楽ははびこるもので、また愛執で潤される。
実に人々は歓楽にふけり、楽しみをもとめて、生と老衰を受ける。

342  愛欲に駆り立てられた人々は
わなにかかった兎のように、ばたばたする。
束縛の絆にしばられ愛著になずみ、永いあいだくりかえし苦悩を受ける。

343  愛欲に駆り立てられた人々は
わなにかかった兎のように、ばたばたする。
それ故に修行僧は、自己の離欲を除き去れ。

344  愛欲の林から出ていながら、また愛欲の林に身をゆだね
愛欲の林から免れていながら、また愛欲の林に向って走る。
その人を見よ。
束縛から脱しているのに、また束縛に向って走る。

345/346  鉄や木材や麻紐でつくられた枷を
思慮ある人々は堅固な縛とは呼ばない。
宝石や耳環・腕輪をやたらに欲しがること、妻や子にひかれること
___それが堅固な縛である、と思慮ある人々は呼ぶ。
それは低く垂れ、緩く見えるけれども、逃れ難い。
かれらはこれをさえも断ち切って、顧みること無く
欲楽をすてて、遍歴修行する。

347 愛欲になずんでいる人々は激流に押し流される
___蜘蛛がみずから作った網にしたがって行くようなものである。
思慮ある人々はこれをも断ち切って、顧みることなく
すべての苦悩をすてて、歩んで行く。

348 前を捨てよ。後を捨てよ。中間を棄てよ。
生存の彼岸に達した人は、あらゆることがらについて心が解脱していて
もはや生れと老いとを受けることが無いであろう。

349 あれこれ考えて心が乱れ、愛欲がはげしくうずくのに
愛欲を淨らかだと見なす人には、愛執がますます増大する。
この人は実に束縛の絆を堅固たらしめる。

350  あれこれの考えをしずめるのを楽しみ、つねに心にかけて
(身体などを)不浄であると観じて修する人は
実に悪魔の束縛の絆をとりのぞき、断ち切るであろう。

351 さとりの究極に達し、恐れること無く、無我で
わずらいの無い人は、生存の矢を断ち切った。これが最後の身体である。

352 愛欲を離れ、執著なく、諸の語義に通じ諸の文章と
その脈絡を知るならば、その人は最後の身体をたもつものであり
「大いなる智慧ある人」と呼ばれる。

353  われはすべてに打ち勝ち、すべてを知り
あらゆることがらに関して汚されていない。
すべてを捨てて、愛欲は尽きたので、こころは解脱している。
みずからさとったのであって、誰を(師と)呼ぼうか。

354 教えを説いて与えることはすべての贈与にまさり
教えの妙味はすべての味にまさり
教えを受ける楽しみはすべての楽しみにまさる。
妄執をほろぼすことはすべての苦しみうち勝つ。

355 彼岸にわたることを求める人々は享楽に害われることがない。
愚人は享楽のために害われるが、享楽を妄執するがゆえに
愚者は他人を害うように自分も害う。

356 田畑は雑草によって害われ、この世は人々は愛欲によって害われる。
それ故に愛欲を離れた人々に供養して与えるならば
大いなる果報を受ける。

357 田畑は雑草によって害われ、この世は人々は怒りによって害われる。
これ故に怒りを離れた人々に供養して与えるならば
大いなる果報を受ける。

358  田畑は雑草によって害われ、この世は人々は迷妄によって害われる。
それ故に迷妄を離れた人々に供養して与えるならば
大いなる果報を受ける。

359  田畑は雑草によって害われ、この世は人々は欲求によって害われる。
それ故に欲求を離れた人々に供養して与えるならば
大いなる果報を受ける。

第二十五章 修行僧 

360  眼について慎しむのは善い。耳について慎しむは善い。
鼻について慎しむのは善い。舌について慎しむのは善い。

361 身について慎むのは善い。ことばについて慎しむのは善い。
心について慎しむのは善い。あらゆることについて
慎しむのは善いことである。
修行僧はあらゆることがらについて慎しみ、すべての苦しみから脱れる。

362  手をつつしみ、足をつつしみ、ことばをつつしみ、最高につつしみ
内心に楽しみ、心を安定統一し、ひとりで居て、満足している
___その人を<修行僧>と呼ぶ。

363  口をつつしみ、思慮して語り、心が浮わつくことなく
事がらと真理とを明らかにする修行僧
___かれの説くところはやさしく甘美である。

364  真理を喜び、真理を楽しみ、真理をよく知り分けて
真理にしたがっている修行僧は、正しいことわりから墜落することがない。

365  (托鉢によって)自分の得たものを軽んじてはならない。
他人の得たものを羨むな。
他人を羨む修行僧は心の安定を得ることができない。

366  たとい得たものは少なくても
修行僧が自分の得たものを軽んずることが無いならば
怠ることなく清く生きるその人を、神々も称讃する。

367 名称とかたちについて「わがもの」という想いが全く存在しないで
何ものも無いからとて憂えることの無い人
___かれこそ<修行僧>とよばれる。

368  仏の教えを喜び、慈しみに住する修行僧は
動く形成作用の静まった、安楽な、静けさの境地に到達するであろう。

369  修行僧よ。この舟から水を汲み出せ。
汝が水を汲み出したならば、舟は軽やかにやすやすと進むであろう。
貪りと怒りとを断ったならば、汝はニルヴァーナにおもむくであろう。

370 五つ(の束縛)を断て。五つ(の束縛)を捨てよ。
さらに五つ(のはたらき)を修めよ。
五つの執著を超えた修行僧は、<激流を渡った者>とよばれる。

371  修行僧よ。瞑想せよ。なおざりになるな。
汝の心を欲情の対象に向けるな。なおざりのゆえに鉄丸を呑むな。
(灼熱した鉄丸で)焼かれるときに、「これは苦しい!」といって泣き叫ぶな。

372  明らかな智慧の無い人には精神の安定統一が無い。
精神の安定統一していない人には明らかな智慧が無い。
精神の安定統一と明らかな智慧とがそなわっている人こそ
すでにニルヴァーナの近くにいる。

373 修行僧が人のいない空家に入って心を静め
真理を正しく観ずるならば、人間を超えた楽しみがおこる。

374 個人存在を構成している諸要素の生起と消滅とを
正しく理解するに従って、その不死のことわりを知り得た人々にとって
喜びと悦楽なるものを、かれは体得する。

375  これは、この世において明らかな智慧のある修行僧の
初めのつとめである
___感官に気をくばり、満足し、戒律をつつしみ行ない
怠らないで、淨らかに生きる善い友とつき合え。

376  その行いが親切であれ。(何ものでも)わかち合え。
善いことを実行せよ。そうすれば、喜びにみち、苦悩を減するであろう。

377  修行僧らよ。ジャスミンの花が花びらを捨て落とすように
貪りと怒りとを捨て去れよ。

378  修行僧は、身も静か、語(ことば)も静か、心も静かで
よく精神統一をなし、世俗の享楽物を吐きすてたならば
<やすらぎに帰した人>と呼ばれる。

379 みずから自分を励ませ。みずから自分を反省せよ。修行僧よ。
自己を護り、正しい念いをたもてば、汝は安楽に住するであろう。

380 実に自己は自分の主(あるじ)である。
自己は自分の帰趨(よるべ)である。 故に自分をととのえよ
___商人が良い馬を調教するように。

381  喜びにみちて仏の教えを喜ぶ修行僧は、動く形成作用の静まった
幸いな、やすらぎの境地に達するであろう。

382 たとい年の若い修行僧でも、仏の道にいそしむならば
雲を離れた月のように、この世を照らす。

第二十六章 バラモン

383 バラモンよ。流れを断って。勇敢であれ。諸の欲望を去れ。
諸の現象の消滅を知って、作られざるもの(ニルヴァーナ)を知る者であれ。

384  バラモンが二つのことがら(止と観)について
彼岸に達した(完全になった)ならば、かれはよく知る人であるので
かれの束縛はすべて消え失せるであろう。

385  彼岸もなく、此岸もなく、彼岸・此岸なるものもなく、恐れもなく
束縛もない人___かれをわれはバラモンと呼ぶ。

386  静かに思い、塵垢(ちりけがれ)なく、おちついて
為すべきことをなしとげ、煩悩を去り、最高の目的を達した人
___かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

387 太陽は昼にかがやき、月は夜に照し。武士は鎧を着てかがやき
バラモンは瞑想に専念してかがやく。
しかしブッダはつねに威力もて昼夜に輝く。

388  悪を取り除いたので<バラモン>(婆羅門)と呼ばれ
行いが静かにしているので<道の人>(沙門)と呼ばれる。
おのれの汚れを除いたので、そのゆえに<出家者>と呼ばれる。

389  バラモンを打つな。
バラモンはかれ(打つ人)にたいして怒りを放つな。
バラモンを打つものには禍がある。
しかし(打たれて)怒る者にはさらに禍がある。

390 愛好するものから心を遠ざけるならば
このことはバラモンにとって少なからずすぐれたことである。
害する意(おもい)がやむにつれて、苦悩が静まる。

391  身にも、ことばにも、心にも、悪い事を為さず
三つのところについてつつしんでいる人
___かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

392 正しく覚った人(ブッダ)の説かれた教えを
はっきりといかなる人から学び得たのであろうとも
その人を恭しく敬礼せよ___バラモンが祭の火を恭しく尊ぶように。

393 螺髪を結んでいるからバラモンなのではない。
氏姓によってバラモンなのでもない。
生れによってバラモンなのでもない。
真理と理法とをまもる人は、安楽である。
かれこそ(真の)バラモンなのである。

394  愚者よ。螺髪を結うて何になるのだ。
かもしかの皮をまとって何になるのだ。
汝は内に密林(汚れ)を蔵して、外側だけを飾る。

395  糞掃衣をまとい、痩せて、血管があらわれ
ひとり林の中にあって瞑想する人
___かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

396 われは、(バラモン女の)胎から生れ(バラモンの)母から生れた人を
バラモンと呼ぶのではない。
かれは「<きみよ>といって呼びかける者」といわれる。
かれは何か所有物の思いにとらわれている。
無一物であって執著のない人
___かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

397  すべての束縛を断ち切り、恐れることなく、執著を超越して
とらわれることの無い人___かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

398  紐と革帯と網とを、手網ともども断ち切り
門をとざす閂(かんぬき)を滅ぼして、めざめた人
___かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

399 罪がないのに罵られ、なぐられ、拘禁されるのを堪え忍び
忍耐の力あり、心の猛き人___かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

400 怒ることなく、つつしみあり、戒律を奉じ、欲を増すことなく
身をととのえ、最後の身体に達した人
___かれをわれは<バラモン>とよぶ。

401  蓮葉の上の露のように、錐の尖の芥子のように
緒の欲情に汚されない人___かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

402  すでにこの世において自分の苦しみの滅びたことを知り
重荷をおろし、とらわれの無い人___かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

403  明らかな智慧が深くて、聡明で、種々の道に通達し
最後の目的を達した人___かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

404 在家者・出家者のいずれとも交らず、住家がなくて遍歴し
欲の少ない人___かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

405  強くあるいは弱い生きものに対して暴力を加えることなく
殺さずまた殺させることのない人___かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

406 敵意ある者どもの間にあって敵意なく
暴力を用いる者どもの間にあって心おだやかに
執著する者どもの間にあって執著しない人
___かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

407 芥子粒が錐の尖端から落ちるように
愛著と憎悪と高ぶりと隠し立てとが脱落した人
___かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

408  粗野ならず、ことがらをはっきりと伝える真実のことばを発し
ことばによって何人の感情をも害することのない人
___かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

409  この世において、長かろうと短かろうと
微細であろうと粗大であろうとも、浄かろうとも不浄であろうとも
すべて与えられていないもの物を取らない人
___かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

410 現世を望まず、来世をも望まず、欲求がなくて
とらわれの無い人___かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

411  こだわりあることなく、さとりおわって、疑惑なく
不死の底に達した人___かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

412  この世の禍福いずれにも執著することなく、憂いなく、汚れなく
清らかな人___かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

413  曇りのない月のように、清く、澄み、濁りがなく
歓楽の生活の尽きた人___かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

414  この障害・険道・輪廻(さまよい)・迷妄を超えて
渡りおわって彼岸に達し、瞑想し、興奮することなく、疑惑なく
執著することなくて
心安らかな人___かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

415 この世の欲望を断ち切り、出家して遍歴し
欲望の生活の尽きた人___かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

416  この世の愛執を断ち切り、出家して遍歴し
愛執の生存の尽きた人___かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

417  人間の絆を捨て、天界の絆を越え
すべての絆をはなれた人___かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

418  <快楽>と<不快>とを捨て、清らかに涼しく
とらわれることなく、全世界にうち勝った英雄
___かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

419  生きとし生ける者の生死をすべて知り、執著なく、よく行きし人
覚った人___かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

420  神々も天の伎楽神(ガンダルヴァ)たちも人間も
その行方を知り得ない人、煩悩の汚れを滅ぼしつくした真人
___かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

421  前にも、後にも、中間にも、一物をも所有せず、無一物で
何ものをも執著して取りおさえることの無い人
___かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

422 牡牛のように雄々しく、気高く、英雄・大仙人・勝利者
欲望の無い人・沐浴者・覚った人(ブッダ)
___かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

423  前世の生涯を知り、また天上と地獄とを見
生存を滅ぼしつくすに至って、直観智を完成した聖者
完成すべきことをすべて完成した人
___かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

ダンマパダ1

第1章 ひと組みずつ
第2章 はげみ
第3章 心
第4章 花にちなんで
第5章 愚かな人
第6章 賢い人
第7章 真人
第8章 千という数にちなんで
第9章 悪
第10章 暴力
第11章 老いること
第12章 自
第13章 世の中
第14章 ブッダ
第15章 楽しみ

第一章 ひと組ずつ

1 ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。
もしも、汚れた心で話したり行ったりするならば
苦しみはその人に付き従う
---車をひく(牛)の足跡に車輪がついてゆくように。

2 ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。
もしも清らかな心で話したり行ったりするならば
福楽はその人に付き従う
---影がそのからだから離れないように。

3 「彼はわれを罵った。彼はわれを害した。彼はわれにうち勝った。
彼はわれから強奪した。」という思いを抱く人には
怨みはついに息むことがない。

4 「彼はわれを罵った。彼はわれを害した。彼はわれにうち勝った。
彼はわれから強奪した。」という思いを抱かない人には
ついに怨みが息む。

5 実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば
ついに怨みの息むことがない。
怨みを捨ててこそ息む。これは永遠の真理である。

6 「われらは、ここにあって死ぬはずのものである。」と覚悟をしよう
---このことわりを他の人々は知ってはいない。
しかし、このことわりを知る人々があれば、争いは静まる。

7 この世のものを浄らかだと思いなして暮らし
(眼などの)感官を抑制せず、食事の節度を知らず
怠けて勤めない者は、悪魔にうちひしがれる
---弱い樹木が風に倒されるように。

8 この世のものを不浄であると思いなして暮らし
(眼などの)感官をよく抑制し、食事の節度を知り、信念あり
勤めはげむ者は、悪魔にうちひしがれない
---岩山が風にゆるがないように。

9 けがれた汚物を除いていないのに
黄褐色の法衣をまとおうと欲する人は
自制がなく真実もないのであるから
黄褐色の法衣はふさわしくない。

10 けがれた汚物を除いていて、戒律を守ることに専念している人は
自制と真実とをそなえているから、黄褐色の法衣をまとうのにふさわしい。

11 まことではないものを、まことであると見なし
まことであるものを、まことではないと見なす人々は
あやまった思いにとらわれて、ついに真実(まこと)に達しない。

12 まことであるものを、まことであると知り
まことではないものを、まことではないと見なす人は
正しい思いにしたがって、ついに真実に達する。

13 屋根を粗雑に葺いてある家には雨が漏れ入るように
心を修養していないならば、情欲が心に侵入する。

14 屋根をよく葺いてある家には雨の漏れ入ることがないように
心をよく修養してあるならば、情欲の侵入することがない。

15 悪いことをした人は、この世で憂え、来世でも憂え
ふたつのところで共に憂える。
彼は自分の行為が汚れているのを見て、憂え、悩む。

16 善いことをした人は、この世で喜び、来世でも喜び
ふたつのところで共に喜ぶ。
彼は自分の行為が浄らかなのを見て、喜び、楽しむ。

17 悪いことをなす者は、この世で悔いに悩み、来世でも悔いに悩み
ふたつのところで悔いに悩む。
「私は悪いことをしました。」といって悔いに悩み
苦難のところ(地獄など)におもむいて
(罪のむくいを受けて)さらに悩む。

18 善いことをなす者は、この世で歓喜し、来世でも歓喜
ふたつのところで共に歓喜する。
「私は善いことをしました。」といって歓喜
幸あるところ(天の世界)におもむいて、さらに喜ぶ。

19 たとえためになることを数多く語るにしても
それを実行しないならば、その人は怠っているのである
---牛飼いが他人の牛を数えているように
かれは修行者の部類には入らない。

20 たとえためになることを少ししか語らないにしても
理法にしたがって実践し、情欲と怒りと迷妄を捨てて
正しく気をつけていて、心が解脱して
執着することの無い人は、修行者の部類に入る。

第二章 はげみ

21 つとめ励むのは不死の境地である。
怠りなまけるのは死の境涯である。
つとめ励む人々は死ぬことがない。
怠りなまける人々は、死者のごとくである。

22 このことをはっきりと知って、つとめはげみを能(よ)く知る人々は
つとめはげみを喜び、聖者たちの境地を楽しむ。

23 (道に)思いをこらし、堪え忍ぶことつよく
つねに健(たけ)く奮励する、思慮ある人々は、安らぎに達する。
これは無上の幸せである。

24 こころはふるいたち、思いつつましく、行いは清く
気をつけて行動し、みずから制し、法(のり)にしたがって生き
つとめ励む人は、名声が高まる。

25 思慮ある人は、奮い立ち、つとめ励み、自制・克己によって
激流も押し流すことのできない島をつくれ。

26 智慧乏しき愚かな人々は放逸にふける。
しかし心ある人は、最上の財宝(たから)をまもるように
つとめ励むのをまもる。

27 放逸にふけるな。愛欲と歓楽に親しむな。
怠ることなく思念をこらす者は、大いなる楽しみを得る。

28 賢者が精励修行によって怠惰を退けるときには
智慧の高閣(たかどの)に登り
自らは憂い無くして(他の)憂いある愚人どもを見下ろす
____山上にいる人が地上の人々を見下ろすように。

29 怠りなまけている人々の中で、ひとりつとめはげみ
眠っている人々の中で、ひとりよく目覚めている思慮ある人は
疾く走る馬が、足のろの馬を抜いて駆けるようなものである。

30 マガヴァー(インドラ神)は、つとめ励んだので
神々の中での最高の者となった。つとめはげむことを人々はほめたたえる。
放逸なることは常に非難される。

31 勤しむことを楽しみ放逸に恐れをいだく修行僧は
微細なものでも粗大なものでも全て心のわずらいを
焼きつくしながら歩む___燃える火のように。

32 勤しむことを楽しみ、放逸に恐れをいだく修行僧は
堕落するはずはなく、すでにニルヴァーナの近くにいる。

第三章 心

33 心は動揺し、ざわめき、護り難く、制し難い。
英知ある人はこれを直くする
___弓師が矢の弦を直くするように。

34 水の中の住処から引き出されて
陸「おか」の上に投げ捨てられた魚のように
この心は、悪魔の支配から逃れようとしてもがきまわる。

35 心は、捉え難く、軽々(かろがろ)とざわめき
欲するがままにおもむく。
その心をおさめることは善いことである。
心をおさめたならば、安楽をもたらす。

36 心は極めて見難く、極めて微妙であり
欲するがままにおもむく。英知ある人は守れかし。
心を守ったならば、安楽をもたらす。

37 心は遠くに行き、独り動き、形体なく
胸の奥の洞窟にひそんでいる。
この心を制する人々は、死の束縛から逃れるであろう。

38 心が安住することなく、正しい真理を知らず
信念が汚されたならば、さとりの智慧は全うからず。

39 心が煩悩に汚されることなく
おもいが乱れることなく
善悪のはからいを捨てて
目ざめている人には、何も恐れることが無い。

40 この身体は水瓶のように脆いものだと知って
この心を城郭のように(堅固に)安立して
智慧の武器をもって、悪魔と戦え。
勝ち得たものを守れ。
___しかもそれに執着することなく。

41 ああ、この身はまもなく
地上によこたわるであろう。
___意識を失い、無用の木片(きぎれ)のように
投げ捨てられて。

42 憎む人が憎む人にたいし、
怨む人が怨む人にたいして
どのようなことをしようとも、
邪なことをめざしている心は
それよりもひどいことをする。

43 母も父もその他親族がしてくれるよりも
さらに優れたことを、正しく向けられた心がしてくれる。

第四章 花にちなんで

44 だれがこの大地を征服するであろうか?
だれが閻魔の世界と神々とともなるこの世界とを征服するであろうか?
わざに巧みな人が花を摘むように
善く説かれた真理のことばを摘み集めるのはだれであろうか?

45 学びにつとめる人こそ、この大地を征服し
閻魔の世界と神々とともなるこの世界とを征服するであろう。
わざに巧みな人が花を摘むように、学びつとめる人々こそ
善く説かれた真理のことばを摘み集めるであろう。

46 この身は泡沫のごとくであると知り
かげろうのようなはかない本性のものであると、さとったならば
悪魔の花の矢を断ち切って、死王に見られないところへ行くであろう。

47 花を摘むのに夢中になっている人を、死がさらって行くように
眠っている村を、洪水が押し流して行くように____

48 花を摘むのに夢中になっている人が
未だ望みを果たさないうちに、死神が彼を征服する。

49 蜜蜂は(花の)色香を害(そこなわず)に
汁をとって、花から飛び去る。
聖者が村に行くときは、そのようにせよ。

50 他人の過失を見るなかれ。
他人のしたこととしなかったことを見るな。
ただ自分のしたこととしなかったことだけを見よ。

51 うるわしく、あでやかに咲く花でも、香りの無いものがあるように
善く説かれたことばでも、それを実行しない人には実りがない。

52 うるわしく、あでやかに咲く花で
しかも香りのあるものがあるように
善く説かれたことばも、それを実行する人には、実りがある。

53 うず高い花を集めて多くの華鬘(はなかざり)をつくるように
人として生まれまた死ぬべきであるならば、多くの善いことをなせ。

54 花の香りは風に逆らっては進んで行かない。
栴檀(せんだん)もタガラの花もジャスミンもみなそうである。
しかし徳のある人の香りは、風に逆らっても進んで行く。
徳のある人はすべての方向に薫る。

55 栴檀、タガラ、青蓮華、ヴァッシキー
____これら香りのあるものどものうちでも
徳行の香りこそ最上である。

56 タガラ、栴檀の香りは微かであって、大したことはない。
しかし徳行のある人々の香りは最上であって、天の神々にもとどく。

57 徳行を完成し、つとめはげんで生活し
正しい智慧によって解脱した人々には、悪魔も近づくによし無し。

58 大道に捨てられた塵芥(ちりあくた)の山堆(やまずみ)の中から
香しく麗しい蓮華が生ずるように。

59 塵芥にも似た盲(めしい)た凡夫のあいだにあって
正しくめざめた人(ブッダ)の弟子は智慧をもって輝く。

第五章 愚かな人

60 眠れない人には夜は長く、疲れた人には一里の道は遠い。
正しい真理を知らない愚かな者どもには、生死の道のりは長い。

61 旅に出て、もしも自分よりもすぐれた者か
または自分にひとしい者に出会わなかったら
むしろきっぱりと独りで行け。
愚かな者を道伴(づ)れにしてはならぬ。

62 「わたしたちには子がある。わたしには財がある。」と思って
愚かな者は悩む。
しかしすでに自己が自分のものではない。
ましてどうして子が自分のものであろうか。
どうして財が自分のものであろうか。

63 もしも愚者がみずから愚であると考えれば、すなわち賢者である。
愚者でありながら、しかもみずから賢者だと思う者こそ
「愚者」だと言われる。

64 愚かな者は生涯賢者に仕えても、真理を知ることが無い。
匙が汁の味を知ることができないように。

65 聡明な人は瞬時(またたき)のあいだ賢者に仕えても
ただちに真理を知る
___舌が汁の味をただちに知るように。

66 あさはかな愚人どもは、自己に対して
仇敵(かたき)に対するようにふるまう。
悪い行いをして、苦い果実(このみ)をむすぶ。

67 もしも或る行為をした後に、それを後悔して
顔に涙を流して泣きながら、その報いを受けるならば
その行為をしたことは善くない。

68 もしも或る行為をしたのちに、それを後悔しないで
嬉しく喜んで、その報いを受けるならば、その行為をしたことは善い。

69 愚かな者は、悪いことを行っても、その報いの現れないあいだは
それを密のように思いなす。
しかし、その罪の報いの現れたときには、苦悩を受ける。

70 愚かなものは、たとい毎月(苦行者の風習にならって一月に一度だけ)
茅草の端につけて(極く少量の)食べ物を摂るようなことをしても
(その功徳は)真理をわきまえた人々の16分の1にも及ばない。

71 悪事をしても、その業は、しぼり立ての牛乳のように
すぐに固まることはない。
(徐々に固まって熟する)その業は、灰に覆われた火のように
(徐々に)燃えて悩ましながら、愚者につきまとう。

72 愚かな者に念慮(おもい)が生じても
ついにかれには不利なことになってしまう。
その念慮は彼の好運(しあわせ)を滅ぼし、かれの頭を打ち砕く。

73 愚かな者は、実にそぐわぬ虚しい尊敬を得ようと願うであろう。
修行僧らのあいだでは上位を得ようとし
僧房にあっては権勢を得ようとし
他人の家に行っては供養を得ようと願うであろう。

74 「これは、わたしのしたことである。
在家の人々も出家した修行者たちも、ともにこのことを知れよ。
およそなすべきこととなすべからざることとについては、私の意に従え」
___愚かな者はこのように思う。
こうして欲求と高慢(たかぶり)とがたかまる。

75 一つは利得に達する道であり、他の一つは安らぎにいたる道である。
ブッダの弟子である修行僧はこのことわりを知って、栄誉を喜ぶな。
孤独の境地に励め。

第六章 賢い人

76 (おのが)罪過(つみとが)を指し示し過ちを告げてくれる
聡明な人に会ったならば、その賢い人につき従え
___隠してある財宝のありかを告げてくれる人につき従うように。
そのような人につき従うならば、善いことがあり、悪いことは無い。

77 (他人を)訓戒せよ、教えさとせ。
宜しくないことから(他人を)遠ざけよ。
そうすればその人は善人に愛せられ、悪人からは疎まれる。

78 悪い友と交わるな。卑しい人と交わるな。
善い友と交われ。尊い人と交われ。

79 真理を喜ぶ人は、心きよらかに澄んで、安らかに臥す。
聖者の説きたもうた真理を、賢者はつねに楽しむ。

80 水道をつくる人は水をみちびき、矢をつくる人は矢を矯め
大工は木材を矯め、賢者は自己をととのえる。

81 一つの岩の塊りが風に揺るがないように
賢者は非難と賞賛とに動じない。

82 深い湖が、澄んで、清らかであるように
賢者は真理を聞いて、こころ清らかである。

83 高尚な人々は、どこにいても、執着することが無い。
快楽を欲してしゃべることが無い。
楽しいことに遭(あ)っても、賢者は動ずる色がない。

84 自分のためにも、他人のためにも、子を望んではならぬ。
財をも国をも望んではならぬ。
邪なしかたによって自己の繁栄を願うてはならぬ。
(道にかなった)行いあり、明らかな智慧があり、真理にしたがっておれ。

85 人々は多いが、彼岸(かなたのきし)に達する人々は少ない。
他の(多くの)人々はこなたの岸の上でさまよっている。

86 真理が正しく説かれたときに、真理にしたがう人々は
渡りがたい死の領域を超えて、彼岸(かなたのきし)にいたるであろう。

87 賢者は、悪いことがらを捨てて、善いことがらを行え。
家から出て、家の無い生活に入り、楽しみ難いことではあるが
孤独(ひとりい)のうちに、喜びを求めよ。

88 賢者は欲楽をすてて、無一物となり
心の汚れを去って、おのれを浄めよ。

89 覚りのよすがに心を正しくおさめ、執着なく貪りを捨てるのを喜び
煩悩を滅ぼし尽くして輝く人は
現世において全く束縛から解きほごされている。

第七章 真人 

90 すでに(人生の)旅路を終え、憂いをはなれ
あらゆることがらにくつろいで、あらゆる束縛の絆をのがれた人には
悩みは存在しない。

91 こころをとどめている人々は努めはげむ。かれらは住居を楽しまない。
白鳥が立ち去るように、かれらはあの家、この家を捨てる。

92 財を蓄えることなく、食べ物についてその本性を知り
その人々の解脱の境地は空にして無相であるならば
かれらの行く路(足跡)は知り難い
___空飛ぶ鳥の迹の知りがたいように。

93 その人の汚れは消え失せ、食べ物をむさぼらず
その人の解脱の境地は空にして無相であるならば、かれの足跡は知り難い
___空飛ぶ鳥の迹の知り難いように。

94 御者が馬をよく馴らしたように、おのが感官を静め
高ぶりをすて、汚れのなくなった
___このような境地にある人を神々でさえも羨む。

95 大地のように逆らうことなく、門のしまりのように慎み深く
(深い)湖は汚れた泥がないように
___そのような境地にある人には、もはや生死の世は絶たれている。

96 正しい智慧によって解脱して、やすらいに帰した人
___そのような人の心は静かである。
ことばも静かである。行いも静かである。

97 何ものかを信ずることなく、作られざるもの(ニルヴァーナ)を知り
生死の絆を断ち、(善悪をなすに)よしなく、欲求を捨て去った人
___かれこそ実に最上の人である。

98 村にせよ、林にせよ、低地にせよ、平地にせよ
聖者の住む土地は楽しい。

99 人のいない林は楽しい。世人の楽しまないところにおいて
愛著なき人々は楽しむであろう。
かれらは快楽を求めないからである。

第八章 千という数にちなんで

100 無益な語句を千たびかたるよりも
聞いて心の静まる有益な語句を一つ聞くほうがすぐれている。

101 無益な語句よりなる詩が千もあっても
聞いて心の静まる詩を一つ聞くほうがすぐれている。

102 無益に語句よりなる詩を百もとなえるよりも
聞いて心の静まる詩を一つ聞くほうがすぐれている。

103 戦場において百万人に勝つよりも
唯だ一つの自己に克つ者こそ、じつに最上の勝利者である。

104/105 自己にうち克つことは
他の人々に勝つことよりもすぐれている。
つねに行ないをつつしみ、自己をととのえている人
___このような人の克ち得た勝利を敗北に転ずることは
神も、ガンダルヴァ(天の伎楽神)も、悪魔も、梵天もなすことができない。

106 百年のあいだ、月々千回ずつ祭祀を営む人がいて
またその人が自己を修養した人を一瞬間でも供養するならば
その供養することのほうが、百年祭祀を営むよりもすぐれている。

107 功徳を得ようとして、ひとがこの世で一年間
神をまつり犠牲をささげ、あるいは火にささげ物をしても
その全部をあわせても、(真正なる祭りの功徳の)四分の一にも及ばない。
行いの正しい人々を尊ぶことのほうがすぐれている。

108 つねに敬礼を守り、年長者を敬う人には
四種のことがらが増大する
___すなわち、寿命と美しさと楽しみと力とである。

109 素行が悪く、心が乱れていて百年生きるよりは
徳行あり思い静かな人が一日生きるほうがすぐれている。

110 愚かに迷い、心の乱れている人が百年生きるよりは
智慧あり思い静かな人が一日生きるほうがすぐれている。

111 怠りなまけて、気力もなく百年生きるよりは
堅固につとめ励んで一日生きるほうがすぐれている。

112 事物が興りまた消え失せることわりを見ないで百年生きるよりも
事物が興りまた消え失せることわりを見て
一日生きることのほうがすぐれている。

113 不死(しなない)の境地を見ないで百年生きるよりも
不死の境地を見て一日生きることのほうがすぐれている。

114 最上の真理を見ないで百年生きるよりも
最上の真理を見て一日生きるほうがすぐれている。

第九章 悪

116 善をなすのを急げ。悪から心を遠ざけよ。
善をなすのにのろのろしたら、心は悪事を楽しむ。

117 人がもしも悪いことをしたならば、それを繰り返すな。
悪事を心がけるな。悪が積み重なるのは苦しみである。

118 人がもし善いことをしたならば、それを繰り返せ。
善いことを心掛けよ。善いことが積み重なるのは楽しみである。

119 まだ悪の報いが熟しないあいだは、悪人でも幸運に遭うことがある。
しかし悪の報いが熟したときには、悪人はわざわいに遭う。

120 まだ善い報いが熟しないあいだは
善人でもわざわいに遭うことがある。
しかし善の果報が熟したときには、善人は幸福(さいわい)に遭う。

121 「その報いは私には来ないだろう」とおもって、悪を軽んずるな。
水が一滴ずつ滴りおちるならば、水瓶でも満たされるのである。
愚かな者は、水を少しずつでも集めるように悪を積むならば
やがてわざわいに満たされる。

122 「その報いは私には来ないであろう」とおもって、善を軽んずるな。
水が一滴ずつ滴りおちるならば、水瓶でも満たされる。
気をつけている人は、水を少しずつでも集めるように善を積むならば
やがて福徳に満たされる。

123 生きたいと願う人が毒を避けるように、人はもろもろの悪を避けよ。

124 もしも手に傷がなければ
その人は手で毒をとり去ることもできるであろう。
傷の無い人に、毒は及ばない。悪をなさない人には、悪の及ぶことがない。

125 汚れの無い人、清くて咎のない人をそこなう者がいるならば
そのわざわいは、かえってその浅はかな人に至る。
風にさからって細かい塵を投げると、(その人にもどって来る)ように。

126 或る人々は[人の]胎に宿り、悪をなした者どもは地獄に墜ち
行いの良い人々は天におもむき、汚れの無い人々は全き安らぎに入る。

127  大空の中にいても、大海の中にいても
山の中の奥深いところに入っても、およそ世界のどこにいても
悪業から脱れることのできる場所は無い。

128 大空の中にいても、大海の中にいても、山の中の洞窟に入っても
およそ世界のどこにいても、死の脅威のない場所は無い。

第十章 暴力

129 すべての者は暴力におびえ、すべての者は死をおそれる。
已が身をひきくらべて、殺してはならぬ。殺させてはならぬ。

130 すべての者は暴力におびえ
すべての(生きもの)にとって生命は愛しい。
已が身にひきくらべて、殺してはならぬ。殺させてはならぬ。

131 生きとし生ける者は幸せをもとめている。
もしも暴力によって生きものを害するならば
その人は自分の幸せをもとめていても、死後には幸せが得られない。

132 生きとし生ける者は幸せをもとめている。
もしも暴力によって生きものを害しないならば
その人は自分の幸せをもとめているが、死後には幸せが得られる。

133 荒々しいことばを言うな。言われた人々は汝に言い返すであろう。
怒りを含んだことばは苦痛である。報復が汝の身に至るであろう。

134 こわれた鐘のように、声をあらげないならば
汝は安らぎに達している。汝はもはや怒り罵ることがないからである。

135 牛飼いが棒をもって牛どもを牧場に駆り立てるように
老いと死とは生きとし生けるものどもの寿命を駆り立てる。

136 しかし愚かな者は、悪い行ないをしておきながら、気がつかない。
浅はかな愚者は自分自身のしたことによって悩まされる
___火に焼きこがれた人のように。

137-140− 手むかうことなく罪咎の無い人々に害を加えるならば
次に挙げる十種の場合のうちのどれかに速やかに出会うであろう
___(1)激しい痛み、(2)老衰、(3)身体の傷害、(4)重い病い、(5)乱心
(6)国王からの災い、(7)恐ろしい告げ口、(8)親族の滅亡と
(9)財産の損失と、(10)その人の家を火が焼く。
この愚かな者は、身やぶれてのちに、地獄に生まれる。

141 裸の行も、髻を結うのも、身が泥にまみれるのも、断食も
露地に臥すのも、塵や泥を身に塗るのも、蹲って動かないのも
___疑いを離れていない人を浄めることはできない。

142  身の装いはどうあろうとも、行い静かに、心おさまり
身をととのえて、慎みぶかく、行い正しく
生きとし生けるものに対して暴力を用いない人こそ、<バラモン>とも
<道の人>とも、また<托鉢遍歴僧>ともいうべきである。

143 みずから恥じて自己を制し、良い馬が鞭を気にかけないように
世の非難を気にかけない人が、この世に誰か居るだろうか? 

144 鞭をあてられた良い馬のように勢いよく努め励めよ。
信仰により、戒しめにより、はげみにより、精神統一により
真理を確かに知ることにより、智慧と行いを完成した人々は
思念をこらし、この少なからぬ苦しみを除けよ。

145 水道をつくる人は水をみちびき、矢をつくる人は矢を矯め
大工は木材を矯め、慎しみ深い人々は自己をととのえる。

第十一章 老いること

146 何の笑いがあろうか。何の歓びがあろうか?
___世間は常に燃え立っているのに。
___汝らは暗黒に覆われている。
どうして燈明を求めないのか?

147 見よ、粉飾された形体を。(それは)傷だらけの身体であって
いろいろのものが集まっただけである。
病いに悩み、意欲ばかり多くて、堅固でなく、安住していない。

148 この容色は衰えはてた。病いの巣であり、脆くも滅びる。
腐敗のかたまりで、やぶれてしまう。生命は死に帰着する。

149  秋に投げすてられた瓢箪のような
鳩の色のようなこの白い骨を見ては、なんの快さがあろうか?

150  骨で城がつくられ、それに肉と血とが塗ってあり
老いと死と高ぶりとごまかしとがおさめられている。

151  いとも麗しい国王の車も朽ちてしまう。身体もまた老いに近づく。
しかし善い立派な人々の徳は老いることがない。
善い立派な人々は互いにことわりを説き聞かせる。

152  学ぶことの少ない人は、牛のように老いる。かれの智慧は増えない。

153 わたくしは幾多の生涯にわたって
生死の流れを無益に経めぐって来た
___家屋の作者(つくりて)をさがしもとめて___。
あの生涯、この生涯とくりかえすのは苦しいことである。

154  家屋の作者よ。汝の正体は見られてしまった。
汝はもはや家屋を作ることはないであろう。
汝の梁はすべて折れ、家の屋根は壊れてしまった。
心は形成作用を離れて、妄執を滅ぼし尽くした。

155  若い時に、財を獲ることなく、清らかな行ないをまもらないならば
魚のいなくなった池にいる白鷺のように、痩せて滅びてしまう。

156  若い時に、財を獲ることなく、清らかな行ないをまもらないならば
壊れた弓のようによこたわる
___昔のことばかり思い出してかこちながら。

第十二章 自己

157  もしもひとが自己を愛しいものと知るならば、自己をよく守れ。
賢い人は、夜の三つの区分のうちの一つだけでも、慎んで目ざめておれ。

158  先ず自分を正しくととのえ、次いで他人を教えよ。
そうすれば賢明な人は、煩わされて悩むひとが無いであろう。

159  他人に教えるとおりに、自分で行なえ___。
自分をよくととのえた人こそ、他人をととのええるであろう。
自己は実に制し難い。

160  自己こそ自分の主である。他人がどうして(自分の)主であろうか? 
自己をよくととのえたならば、得難き主を得る。

161  自分がつくり、自分から生じ、自分から起った智慧
智慧悪しき人を打ちくだく___金剛石が宝石を打ちくだくように。

162  極めて性の悪い人は、仇敵がかれの不幸を望むとおりのことを
自分に対してなす___蔓草(つるくさ)が沙羅の木にまといつくように。

163  善からぬこと、己れのためにならぬことは、なし易い。
ためになること、善いことは、実に極めてなし難い。

164  愚かにも、悪い見解にもとづいて
真理に従って生きる真人・聖者たちの教えを罵るならば
その人は悪い報いが熟する___カッタカという草は
果実が熟すると自分自身が滅びてしまうように。

165  みずから悪をなすならば、みずから汚れ
みずから悪をなさないならば、みずから浄まる。
浄いのも浄くないのも、各自のことがらである。
人は他人を浄めることができない。

166  たとい他人にとっていかに大事であろうとも
(自分ではない)他人の目的のために自分のつとめをすて去ってはならぬ。
自分の目的を熟知して、自分のつとめに専念せよ。

第十三章 世の中

167  下劣なしかたになじむな。怠けてふわふわと暮らすな。
邪な見解をいだくな。世俗のわずらいをふやすな。

168  奮起せよ。怠けてはならぬ。善い行いのことわりを実行せよ。
ことわりに従って行なう人は、この世でも、あの世でも、安楽に臥す。

169  善い行ないのことわりを実行せよ。
悪い行いのことわりを実行するな。
ことわりに従って行なう人は、この世でも、あの世でも、安楽に臥す。

170  世の中は泡沫のごとしと見よ。世の中はかげろうのごとしと見よ。
世の中をこのように観ずる人は、死王もかれを見ることがない。

171  さあ、この世の中を見よ。王者の車のように美麗である。
愚者はそこに耽溺するが、心ある人はそれに執著しない。

172  また以前は怠りなまけていた人でも
のちに怠りなまけることが無いなら、その人はこの世の中を照らす
___あたかも雲を離れた月のように。

173  以前には悪い行いをした人でも、のちに善によってつぐなうならば
その人はこの世の中を照らす___雲を離れた月のように。

174  この世の中は暗黒である。
ここではっきりと(ことわりを)見分ける人は少ない。
網から離れた鳥のように、天に至る人は少ない。

175  白鳥は太陽の道を行き、神通力による者は虚空(そら)を行き
心ある人々は、悪魔とその軍勢にうち勝って世界から連れ去られる。

176  唯一なることわりを逸脱し、偽りを語り
彼岸の世界を無視している人は、どんな悪でもなさないものは無い。

177  物惜しみする人々は天の神々の世界におもむかない。
愚かな人々は分かちあうことをたたえない。
しかし心ある人は分かちあうことを喜んで、その故に来世には幸せとなる。

178  大地の唯一の支配者となるよりも、全世界の主権者となるよりも
聖者の第一階梯(かいてい)(預流果)のほうがすぐれている。

第十四章 ブッダ

179  ブッダの勝利は敗れることがない。
この世においては何人も、かれの勝利には達しえない。
ブッダの境地はひろくて涯しがない。
足跡をもたないかれを、いかなる道によって誘い得るであろうか?

180 誘うために網のようにからみつき執著をなす妄執は
かれにはどこにも存在しない。ブッダの境地は、ひろくて涯しがない。
足跡をもたないかれを、いかなる道によって誘い得るであろうか?

181  正しいさとりを開き、念いに耽り
瞑想に専中している心ある人々は世間から離れた静けさを楽しむ。
神々でさえもかれを羨む。

182 人間の身を受けることは難しい。
死すべき人々に寿命があるのも難しい。正しい教えを聞くのも難しい。
もろもろのみ仏の出現したもうことも難しい。

183  すべて悪しきことをなさず、善いことを行ない
自己の心を浄めること___これが諸の仏の教えである。

184 忍耐・堪忍は最上の苦行である。
ニルヴァーナは最高のものであると、もろもろブッダは説きたもう。
他人を害する人は出家者ではない。他人を悩ます人は<道の人>ではない。

185  罵らず、害わず、戒律に関しておのれを守り
食事に関して(適当な)量を知り、淋しいところにひとり臥し、坐し
心に関することにつとめはげむ___これが諸々のブッダの教えである。

186 たとえ貨幣の雨を降らすとも、欲望の満足されることはない。
「快楽の味は短くて苦痛である」としるのが賢者である。

187  天上の快楽にさえもこころ楽しまない。
正しく覚った人(仏)の弟子は妄執の消滅を楽しむ。

188  人々は恐怖にかられて、山々、林、園、樹木、霊樹など
多くのものにたよろうとする。

189  しかしこれは安らかなよりどころではない。
これは最上のよりどころではない。それらのよりどころによっては
あらゆる苦悩から免れることはできない。

190/191 さとれる者(仏)と真理のことわり(法)と聖者の集い(僧)とに
帰依する人は、正しい知慧をもって、四つの尊い真理を見る。___
すなわち(1)苦しみと、(2)苦しみの成り立ちと、(3)苦しみの超克と
(4)苦しみの終減におもむく八つの尊い道(八正道)とを(見る)。

192  これは安らかなよりどころである。これは最上のよりどころである。
このよりどころにたよってあらゆる苦悩から免れる。

193  尊い人(ブッダ)は得がたい。かれはどこにでも生れるのではない。
思慮深い人(ブッダ)の生れる家は、幸福に栄える。

194  もろもろの仏の現われたもうのは楽しい。
正しい教えを説くのは楽しい。つどいが和合しているのは楽しい。
和合している人々がいそしむのは楽しい。

195/196  すでに虚妄な論議をのりこえ、憂いと苦しみをわたり
何ものをも恐れず、安らぎに帰した、拝むにふさわしいそのような人々
もろもろのブッダまたその弟子たちを供養するならば
この功徳はいかなる人でもそれを計ることができない。

第十五章 楽しみ 

197  怨みをいだいている人々のあいだにあって怨むこと無く
われらは大いに楽しく生きよう。
怨みをもっている人々のあいだにあって怨むこと無く
われらは暮らしていこう。

198  悩める人々のあいだにあって、悩み無く、大いに楽しく生きよう。
悩める人々のあいだにあって、悩み無く暮そう。

199  貪っている人々のあいだにあって、患い無く
大いに楽しく生きよう。
貪っている人々のあいだにあって、むさぼらないで暮らそう。

200  われわれは一物をも所有していない。大いに楽しく生きて行こう。
光り輝く神々のように、喜びを食(は)む者となろう。

201  勝利からは怨みが起る。敗れた人は苦しんで臥す。
勝敗をすてて、やすらぎに帰した人は、安らかに臥す。

202  愛欲にひとしい火は存在しない。
博打に負けるとしても、増悪にひとしい不運は存在しない。
このかりそめの身に等しい苦しみは存在しない。
安らぎに優る楽しみは存在しない。

203  飢えは最大の病いであり
形成せられる存在(わが身)は最もひどい苦しみである。
このことわりをあるがままに知ったならば
ニルヴァーナという最上の楽しみがある。

204  健康は最高の利得であり、満足は最上の宝であり
信頼は最高の知己であり、ニルヴァーナは最上の楽しみである。

205  孤独(ひとりい)の味、心の安らぎの味をあじわったならば
恐れも無く、罪過も無くなる___真理の味をあじわいながら。

206 もろもろの聖者に会うのは善いことである。
かれらと共に住むのはつねに楽しい。
愚かなる者どもに会わないならば、心はつねに楽しいであろう。

207  愚人とともに歩む人は長い道のりにわたって憂いがある。
愚人と共に住むのは、つねにつらいことである
___仇敵とともに住むように。
心ある人と共に住むのは楽しい___親族に出会うように。

208  よく気をつけていて、明らかに智慧あり、学ぶところ多く
忍耐づよく、戒めをまもる、そのような立派な聖者・善き人
英知ある人に親しめよ___月がもろもろの星の進む道にしたがうように。


第十六章 愛するもの

スッタニパータ8

第五 彼岸に至る道の章      

一、序      
二、学生アジタの質問      
三、学生ティッサ・メッテイヤの質問 
四、学生プンナカの質問      
五、学生メッタグーの質問      
六、学生ドータカの質問
七、学生ウパシーヴァの質問      
八、学生ナンダの質問      
九、学生ヘーマカの質問      
一〇、学生トーデイヤの質問      
一一、学生カッパの質問      
一二、学生ジャトゥカンニンの質問      
一三、学生バドラーヴダの質問      
一四、学生ウダヤの質問      
一五、学生ポーサーラの質問      
一六、学生モーガラージャの質問      
一七、学生ピンギヤの質問      
一八、十六学生の質問の結語

一、 序  

976 明呪(ヴェーダ)に通じた一バラモン(バーヴァリ)は
無所有の境地を得ようと願って、コーサラ族の美しい都から
南国へとやってきた。

977 かれはアッサカとアラカと(両国の)中間の地域を流れる
ゴーダーヴァリー河の岸辺に住んでいた──落穂を拾い木の実を食って。

978 その河岸の近くに一つの豊かな村があった。
そこから得た収益によってかれは大きな祭りを催した。

979 かれは、大きな祭りをなし終って、自分の庵にもどった。
かれがもどってきたときに、他の一人のバラモンがやってきた。

980 足を傷め、のどが渇き、歯がよごけ、頭は塵をあびて
かれは、(庵室の中の)かれ(バーヴァリ)に近づいて、五百金を乞うた。

981 バーヴァリはかれを見て、座席を勧め、かれが快適であるかどうか
健康であるかどうか、をたずね、次のことばを述べた。

982 「わたくしがもっていた施物はすべて、わたしが施してしまいました。
バラモンよ。どうかおゆるしください。わたくしには五百金がないのです。」

983 「わたくしが乞うているのに、あなたが施してくださらないならば
いまから七日の後に、あなたの頭は七つに裂けてしまえ。」

984 詐りをもうけた(そのバラモン)は、(呪詛の)作法をして
恐ろしいことを告げた。
かれのその(呪詛の)ことばを聞いて、バーヴァリは苦しみ悩んだ。

985 それは憂いの矢に中てられて、食物もとらないで、うちしおれた。
もはや、心がこのような気持ちでは、心は瞑想を楽しまなかった。

986 バーヴァリが恐れおののき苦しみ悩んでいるのを見て
(庵室を護る)女神は、かれのためを思って
かれのもとに近づいて、次のように語った。

987 「かれは頭のことを知っていません。
かれは財を欲しがっている詐欺者なのです。
頭のことも、頭の落ちることも、かれは知っていないのです。」

988 「では、貴女は知っておられるのでしょう。
お尋ねしますが、頭のことも、頭の落ちることをも
わたくしに話してください。
われらは貴女のおことばを聞きたいのです。」

989 「わたしだってそれを知っていませんよ。
それについての知識はわたしにはありません。
頭のことも、頭の落ちることも
諸々の勝利者(ブッダ) が見そなわしておられます。」

990 「ではこの地上において頭のことと頭の裂け落ちることとを
誰が知っておられるのでですか?
女神さま。どうかわたしに話してください。」

991 「むかしカピラヴァットゥの都から出て行った
世界の指導者(ブッダ)がおられまする。
かれは甘蔗王の後裔であり、シャカ族の子で、世を照す。

992 バラモンよ。かれは実に目ざめた人(ブッダ)であり
あらゆるものの極致に達し、一切の神通と力とを得
あらゆるものを見通す眼をもっている。
あらゆるものの消滅に達し、煩いをなくして解脱しておられます。

993 かの目ざめた人(ブッダ)、尊き師、眼ある人は、世に法を説きたもう。
そなたは、かれのもとに赴いて、問いなさい。
かれは、それを説明するでしょう。」

994 <目ざめた人>という語を聞いてバーヴァリは歓喜した。
かれの憂いは薄らいだ。かれは大いに喜んだ。

995 かのバーヴァリはこころ喜び、歓喜し、感動して
熱心に、かの女神に問うた。

「世間の主は、どの村に、またどの町に
あるいはどの地方にいらっしゃるのですか?
そこへ行って最上の人である正覚者をわれわれは礼拝しましょう。」

996 勝利者智慧豊かな人・いとも聡明な人・荷をおろした人
汚れない人・頭のおちることを知っている人
牛王のような人であるかのシャカ族の子(ブッダ)は
コーラサ国の都であるサーヴァッティーにまします。」

997 そこでかれは(ヴェーダの)神呪に通達した
諸々の弟子・バラモンたちに告げていった、

「来たれ、学生どもよ。われは、そなたらに告げよう。わがことばを聞け。

998 世間に出現すること常に稀有であるところの
かの<目ざめた人>(ブッダ)として命名ある方が
いま世の中に現れたもうた。
そなたらは急いでサーヴァッティーに赴いて、かの最上の人に見えよ。」

999 「では(師)バラモンよ。かれを見て
どうして<目ざめた人>(ブッダ)であると知り得るのでしょう?
われらはどうしたらそれを知り得るか、それを教えてください。
われらは知らないのです。」

1000 諸々の神呪(ヴェーダ)の中に、三十二の完全な偉人の相が伝えられ
順次に一つ一つ説明されている。

1001 肢体にこれらの三十二の偉人の相のある人
──かれには二つの前途があるのみ。第三の途はありえない。

1002 もしもかれが、<転輪王>として家にとどまるならば
この大地を征服するであろう。
刑罰によらず、武器によらず、法によって統治する。

1003 またもしもかれが家から出て家なきに入れば、蔽いを開いて
無上なる<目ざめた人>(ブッダ)、尊敬さるべき人となる。

1004 (わが)生れと、姓と、身体の特徴と、神呪(習ったヴェーダ)と
また弟子たちと、頭のことと、頭も裂け落ちることとを
ただ心の中で(口に出さずに)かれに問え。

1005 もしもかれが、見るはたらきの障礙のない
<目ざめた人>(ブッダ)であるならば、心の中で問われた質問に
ことばを以て返答するであろう。」

1006 バーヴァリのことばを聞いて、弟子である十六人のバラモン
──アジタと、ティッサ・メッテイヤと、プンナカと、およびメッタグーと

1007 ドーカタと、ウパシーヴァと、ナンダと、およびヘーマカと
トーデイヤとカッパとの両人と、賢者ジャトゥカンニンと

1008 バドラーヴダと、ウダヤと、ポーサーラというバラモン
聡明なるモーガラーシャと、大仙人ピンギヤと──

1009 かれらはすべて、それぞれ衆徒を率い、全世界に命名があり
瞑想を行い、瞑想を楽しむ者で、しっかりと落ち着いていて
前世に宿善を植えた人々であった。

1010 髪を結い羚羊皮をまとったかれは、すべてバーヴァリを礼し
またかれに右まわりの礼をして、北方に向って出発した。

1011 ムラカの(首都)パティターナに入り
それから昔の[都]マーヒッサティへ、またウッジェーニーへ、コーナッダ
ブェーディサへ、ヴァナサというところへ

1012 またコーサンビーへ、サーケータへ
最高の都サーヴァッティーに行った。
(ついで)セータヴィヤへ、カピラヴァットゥへ
タシナーラーの宮殿へ(行った)。

1013 さらに享楽の都市パーヴァーへ、ヴェーサーリーへ
マガダの都(王舎城)へ、またうるわしく楽しい(石の霊地)に達した。

1014 渇した人が冷水を求めるように
また商人が大きな利益を求めるように
暑熱に悩まされている人が木陰を求めるように
かれらは急いで(尊師ブッダのまします)山に登った。

1015 尊き師(ブッダ)はそのとき僧衆に敬われ
獅子が林の中で吼えるように修行僧(比丘)らに法を説いておられた。

1016 光を放ちおわった太陽のような
円満になった十五夜の月のような目ざめた人(ブッダ)を
アジタは見たのであった。

1017 そこで(アジタは)師(ブッダ)の肢体に
円満な相好のそなわっているのを見て、喜んで、傍らに立ち
こころの中で(ブッダにつぎのように)質問した。

1018 「(わが師バーヴァリの)生年について語れ。
(バーヴァリの)姓と特徴とを語れ。
神呪(ヴェーダ)に通達していることを語れ。
(師)バラモンは幾人に教えているのか?」

1019 (師はいわれた)
「かれの年齢は百二十歳である。かれの姓はバーヴァリである。
かれの肢体には三つの特徴がある。かれは三ヴェーダの奥義に達している。

1020 偉人の特徴と伝説と語彙と儀規とに達し、五百人(の弟子)に教授し
自分の教説の極致に通達している。」

1021 (アジタいわく)
「妄執を断じた最高の人よ。
バーヴァリのもつ諸々の特徴の詳細を説いてください。
わたくしに疑いを残さないでください。」

1022 [師いわく]
「かれは舌を以てかれの顔を蔽う。
かれの両眉の中間に柔い白い毛(百毫) がある。
かれの隠所は覆いに隠されている。
学生よ、(かれの三つの特徴を)このように知れ。」

1023 質問者がなにも声を出して聞いたのでないのに
(ブッダが)質問に答えたもうたのを聞いて
すべての人は感激し、合掌して、じっと考えた。

1024 いかなる神が心の中でそれらの質問をしたのだろか?
──神か、梵天か、またはスジャーの夫なる帝釈天か?──
また[尊師は]誰に答えたもうたのだろう?

1025 (アジタがいった)
「バーヴァリは頭のことについて、また頭の裂け落ちることについて
質問しました。先生それを説明してください。
仙人さま、われらの疑惑を除いてください。」

1026 (ゴータマ・ブッタは答えた)
「無明が頭であると知れ。明知が信仰と念いと精神統一と
意欲と努力とに結びついて、頭を裂け落とさせるものである。」

1027 そこで、その学生は大いなる感激をもって狂喜しつつ、
羚羊皮(の衣)を(はずして)一方の肩にかけて
(尊師の)両足に跪いて、頭をつけて礼をした。

1028 (アジタがいった)
「わが親愛なる友よ。バーヴァリ・バラモンは、かれの弟子たちとともに
心に歓喜し悦んで、あなたさま(ブッダ)の足下に礼拝します。
眼あるかたよ。」

1029 (ゴータマは答えた)
「バーヴァリ・バラモンも、諸々の弟子も、ともに楽しくあれ。
学生よ、そなたもまた楽しくあれ。永く生きよ。

1030 バーヴァリにとっても、そなたにとっても、もしも疑問が起って
心に問おうと欲するならば、何でも質問なさい。」

1031 <目ざめた人>(ブッダ)に許されたので、アジタは合掌して坐して
そこで真理体現者(如来)に第一の質問をした。

二、学生アジタの質問

1032 アジタさんがたずねた
「世間は何によって覆われているのですか?
世間は何によって輝かないのですか?世間をけがすものは何ですか?
世間の大きな恐怖は何ですか?それを説いてください。」

1033 師(ブッダ)が答えた
「アジタよ。世間は無明によって覆われている。
世間は貪りと怠惰のゆえに輝かない。欲が世間の汚れである。
苦悩が世間の大きな恐怖である、とわたしは説く。」

1034 「煩悩の流れはあらゆるところに向かって流れる。
その流れをせき止めるものは何ですか?
その流れを防ぎ守るものは何ですか?
その流れは何によって塞がれるのでしょうか?それを説いてください。」

1035 師は答えた
「アジタよ。世の中におけるあらゆる煩悩の流れをせき止めるものは
気をつけることである。
(気をつけることが)煩悩の流れを防ぎまもるものである
とわたしは説く。
その流れは智慧によって塞がれるであろう。」

1036 アジタさんがいった
「わが友よ。智慧と気をつけることによって名称と形態とは
いかなる場合に消滅するのですか?
おたずねしますが、このことをわたしに説いてください。」

1037 アジタよ。そなたが質問したことを、わたしはそなたに語ろう。
識別作用が止滅することによって
名称と形態とが残りなく滅びた場合に、この名称と形態とが滅びる。」

1038 「この世には真理を究め明らめた人々もあり
学びつつある人もあり、凡夫もおります。
おたずねしますが、賢者は、どうかかれらのふるまいを語ってください。
わが友よ。」

1039 「修行者は諸々の欲望に耽ってはならない。
こころが混濁していてはならない。
一切の事物の真相に熟達し、よく気をつけて遍歴せよ。」

三、学生ティッサ・メッテイヤの質問

1040 ティッサ・メッテイヤさんがたずねた
「この世で満足している人は誰ですか?動揺することがないのは誰ですか?
両極端を知りつくして、よく考えて
(両極端にも)中間にも汚されることがない、聡明な人は誰ですか?
あなたは誰を<偉大な人>と呼ばれますか?
この世で縫う女(妄執)を超えた人は誰ですか?」

1041 師(ブッダ)は答えた
「メッテイヤよ。諸々の欲望に関して清らかな行いをまもり
妄執を離れて、つねに気をつけて、究め明らめて
安らいに帰した修行者──かれには動揺は存在しない。

1042 かれは両極端を知りつくして、よく考えて
(両極端にも)中間にも汚されない。
かれを、わたしは<偉大な人>と呼ぶ。
かれはこの世で縫う女(妄執)を超えている。」

四、学生プンナカの質問

1043 プンナカさんがたずねた
「動揺することなく根本を達観せられたあなたに
おたずねしようと思って、参りました。
仙人や常の人々や王室やバラモン
何の故にこの世で盛んに神々に犠牲を捧げたのですか?
先生、あなたにおたずねします。それをわたしに説いてください。」

1044 師(ブッタ)は答えた
「プンナカよ。およそ仙人や常の人々や王族やバラモン
この世で盛んに神々に犠牲を捧げたのは
われらの現在のこのような生存状態を希望して
老衰にこだわって、犠牲を捧げたのである。」

1045 プンナカさんがいった
「先生、およそこの世で仙人や常の人々や王族やバラモン
盛んに神々に犠牲を捧げましたが
祭祀の道において怠らなかったかれらは
生と老衰をのり超えたのでしょうか?
わが親愛なる友よ。あなたにおたずねします。
それをわたしに説いてください。」

1046 師は答えた
「プンナカよ。かれらは希望し、称賛し、熱望して、献供する。
利得を得ることに縁って欲望を達成しようと望んでいるのである。
供犠に専念している者どもは、この世の生存を貪って止まない。
かれらは生や老衰をのり超えてはいない、とわたしは説く。」

1047 プンナカさんがいった
「もしも供犠に専念している彼らが祭祀によっても
生と老衰とを乗り越えていないのでしたら、わが親愛なる友よ
では神々と人間の世界のうちで生と老衰とを乗り越えた人は誰なのですか?
先生、あなたにお尋ねします。それをわたしに説いてください。」

1048 師は答えた
「プンナカよ。世の中でかれこれ(の状態)を究め明らめ
世の中で何ものにも動揺することなく、安らぎに帰し、煙なく、苦悩なく
望むことのない人──かれは生と老衰とを乗り越えた──と、わたしは説く。」

五、学生メッタグーの質問

1049 メッタグーさんがたずねた
「先生あなたにおたずねします。このことをわたしに説いてください。
あなたはヴェーダの達人、心を修養された方だとわたくしは考えます。
世の中にある種々様々な、これらの苦しみは
そもそもどこから現われ出たのですか。」

1050 師(ブッタ)は答えた
「メッタグーよ。そなたは、わたしに苦しみの生起するもとを問うた。
わたしは知り得たとおりに、それをそなたに説き示そう。
世の中にある種々様々な苦しみは、執著を縁として生起する。」

1051 実に知ることなくして執著をつくる人は愚鈍であり
くり返し苦しみに近づく。
だから、知ることあり、苦しみの生起のもとを観じた人は
再生の素因(=執著)をつくってはならない。」

1052 「われらがあなたにおたずねしましたことを
あなたはわれらに説き明かしてくださいました。
あなたに他のことをおたずねしますが、どうかそれを説いてください。
どのようにしたならば、諸々の賢者は煩悩の激流、生と老衰
憂いと悲しみとを乗り越えるのでしょうか?
聖者さま。どうかそれをわたくしに説き明かしてください。
あなたはこの法則をあるがままに知っておられるからです。」

1053 師が答えた
「メッタグーよ。伝承によるのではなくて
いま眼のあたり体得されるこの理法を
わたしはそなたに解いて明かすであろう。
その理法を知って、よく気をつけて行い、世間の執著を乗り越えよ。」

1054 偉大な仙人さま。わたくしはその最上の理法を受けて歓喜します。
その理法を知って、よく気をつけて行い
世間の執著を乗り越えるでしょう。」

1055 師が答えた
「メッタグーよ。上と下と横と中央とにおいて
そなたが気づいてよく知っているものは何であろうと
それらに対する喜びと偏執と識別とを除き去って
変化する生存状態のうちにとどまるな。

1056 このようにして、よく気をつけ、怠ることなく行う修行者は
わがものとみなして固執したものを捨て
生や老衰や憂いや悲しみをも捨てて、この世で智者となって
苦しみを捨てるであろう。」

1057 「偉大な仙人のことばを聞いて、わたくしは喜びます。
ゴータマ(ブッダ)さま。煩悩の要素のない境地がよく説き明かされました。
たしかに先生は苦しみを捨てられたのです。
あなたはこの理法をあるがままに知っておられるのです。

1058 聖者さま。あなたが懇切に教えみちびかれた人々もまた
今や苦しみを捨てるでしょう。
竜よ。では、わたくしは、あなたの近くに来て礼拝しましょう。
先生どうか、わたくしをも懇切に教えみちびいてください。」

1059 「何ものをも所有せず、欲の生存に執著しない
バラモンヴェーダの達人であるとそなたが知った人
──かれは確かにこの煩悩の激流をわたった。
かれは彼岸に達して、心の荒びなく、疑惑もない。

1060 またかの人はこの世では悟った人であり、ヴェーダの達人であり
種々の生存に対するこの執著を捨てて、妄執を離れ、苦悩なく
望むことがない。
『かれは生と老衰とを乗り越えた』とわたくしは説く。」

六、学生ドータカの質問

1061 ドーカンさんがたずねた
「先生わたくしはあなたにおたずねします。
このことをわたくしに説いてください。
偉大な仙人さま。わたくしはあなたのおことばを頂きたいのです。
あなたのお声を聞いて、自分の安らぎ(ニルヴァーナ)を学びましょう。」

1062 師(ブッダ)が答えた
「ドータカよ。では、この世でおいて賢明であり、よく気をつけて
熱心につとめよ。
この(わたしの口)から出る声を聞いて、自己の安らぎを学べ。」

1063 「わたくしは、神々と人間との世界において
何ものをも所有せずにふるまうバラモンを見ます。
あまねく見る方よ。わたくしはあなたを礼拝いたします。
シャカ族の方よ。わたくしを諸々の疑惑から解き放ちたまえ。」

1064 「ドータカよ。わたしは世間におけるいかなる
疑惑者をも解脱させ得ないであろう。
ただそなたが最上の真理を知るならば、それによって
そなたはこの煩悩を渡るであろう。」

1065 「バラモンさま。慈悲を垂れて
(この世の苦悩から)遠ざかり離れる理法を教えてください。
わたくしはそれを認識したいのです。
わたくしは、虚空のように、乱され濁ることなしに
この世において静まり、依りすがることなく行きましょう。」

1066 師は言われた
「ドータカよ。伝承によるのではない、まのあたり体得される
この安らぎを、そなたに説き明かすであろう。
それを知ってよく気をつけて行い、世の中の執著を乗り越えよ。」

1067 「偉大な仙人さま。わたくしはその最上の安らぎを受けて歓喜します。
それを知ってよく気をつけて行い、世の中の執著を乗り越えましょう。」

1068 師は答えた
「ドータカよ。上と下と横と中央とにおいて
そなたが気づいてよく知っているものは何であろうと
──それは世の中における執著の対象であると知って
移りかわる生存への妄執をいだいてはならない」と。

七、学生ウバシーヴァの質問

1069 ウバシーヴァさんがたずねた
「シャカ族の方よ。わたしは、独りで他のものにたよることなくして
大きな煩悩の激流をわたることはできません。
わたしがたよってこの激流をわたり得る<よりどころ>をお説きください。
あまねく見る方よ。」

1070 師(ブッダ)は言われた
「ウバシーヴァよ。よく気をつけて、無所有をめざしつつ
なにも存在しないと思うことによって、煩悩の激流を渡れ。
諸々の欲望を捨てて、諸々の疑惑を離れ、妄執の消滅を昼夜に観ぜよ。」

1071 ウバシーヴァさんがいった
「あらゆる欲望に対する貪りを離れ無所有にもとづいて
その他のものを捨て、最上の想いからの解脱において解脱した人
──かれは退きあともどりすることがなく
そこに安住するでありましょうか?」

1072 師は答えた
「ウバシーヴァよ。あらゆる欲望に対する貪りを離れ、
無所有にもとづいて、その他のものを捨て
最上の想いからの解脱において解脱した人
──かれは退きあともどりすることなく、そこに安住するであろう。」

1073 「あまねく見る方よ。もしもかれがそこから退き
あともどりしないで多年そこにとどまるならば、かれはそこで解脱して
清涼となるのでしょうか?
またそのような人の識別作用は(あとまで)存在するのでしょうか?」

1074 師が答えた
「ウバシーヴァよ。たとえば強風に吹き飛ばされた火炎は
滅びてしまって(火としては)数えられないように
そのように聖者は名称と身体から解脱して滅びてしまって
(生存するものとしては)数えられないのである。」

1075 「滅びてしまったその人は存在しないのでしょうか?
或いはまた常住であって、そこなわれないのでしょうか?
聖者さま。どうかそれをわたくしに説明してください。
あなたはこの理法をあるがままに知っておられるからです。」

1076 師は答えた
「ウバシーヴァよ。滅びてしまった者には、それを測る基準が存在しない。
かれを、ああだ、こうだと論ずるよすがが、かれには存在しない。
あらゆることがらがすっかり絶やされたとき
あらゆる論議の道はすっかり絶えてしまったのである。」

八、学生ナンダの質問

1077 ナンダさんがたずねた
「世間には諸々の聖者がいる、と世人は語る。それはどうしてですか?
世人は知識をもっている人を聖者と呼ぶのですか?
あるいは[簡素な]生活を送る人を聖者と呼ぶのですか?」

1078 (ブッダが答えた)
「ナンダよ。世のなかで、真理に達した人たちは
(哲学的)見解によっても、伝承の学問によっても
知識によっても聖者とは言わない。
(煩悩の魔)軍を撃破して、苦悩なく、望むことなく行う人々
──かれらこそ聖者である、とわたしは言う。」

1079 ナンダさんがいった
「おおよそこれらの<道の人>・バラモンたちは(哲学的)見解によって
また伝承の学問によっても清浄になれるとも言います。
先生かれらはそれにもとづいてみずから制して修行しているのですが
はたして生と老衰とを乗り越えたのでしょうか?」

1080 師(ブッダ)は答えた
「ナンダよ。これらの<道の人>・バラモンたちはすべて
(哲学的)見解によって清浄になり、また伝承の学問によっても
清浄になると説く。戒律や誓いを守ることによっても清浄になると説く。
(そのほか)種々のしかたで清浄になるとも説く。
たといかれらがそれらにもとづいてみずから制して行っていても
生と老衰とを乗り越えたのではない、とわたしは言う。」

1081 ナンダさんがいった
「およそこれらの<道の人>・バラモンたちは、見解によって
また伝承の学問によっても清浄になれると言います。
戒律や誓いを守ることによっても清浄になれると言います。
(そのほか)種々のしかたで清浄になれるとも言います。
聖者さま。もしあなたが
『かれらは未だ煩悩の激流を乗り越えていない』と言われるのでしたら
では神々と人間の世界のうちで生と老衰を乗り越えた人は誰なのですか?
親愛なる先生あなたにおたずねします。それをわたくしに説いてください。」

1082 師(ブッダ)は答えた
「ナンダよ。わたしは『すべての道の人・バラモンたちが
生と老衰とに覆われている』と説くのではない。
この世において見解や伝承の学問や戒律や誓いをすっかり捨て
また種々のしかたをもすっかり捨てて、妄執をよく究め明かして
心に汚れのない人々
──かれらは実に『煩悩の激流を乗り越えた人々である』と
わたしは説くのである。」

九、学生ヘ-マカの質問

1084 ヘーマカさんがたずねた
「かってゴータマ(ブッダ)の教えよりも以前に昔の人々が
『以前にはこうだった』『未来はこうなるであろう』といって
わたしに説き明かしたことは、すべて伝え聞くにすぎません。
それはすべて思索の紛糺(ふんきゅう)を増すのみ。
わたしはかれらの説を喜びませんでした。

1085 聖者さま。あなたは、妄執を減しつくす法を
わたくしにお説きください。それを知って、よく気をつけて行い
世間の執著を乗り越えましょう。」

1086 (ブッダが答えた)
「ヘーマカよ。この世において見たり聞いたり考えたり識別した
快美な事物に対する欲望や貪りを除き去ることが
不滅のニルヴァーナの境地である。」

1087 「このことをよく知って、よく気をつけ
現世において全く煩いを離れた人々は、常に安らぎに帰している。
世間の執著を乗り越えているのである」と。

十、学生トーデイヤの質問

1088 トーデイヤさんがたずねた
「諸々の欲望のとどまることなく、もはや妄執が存在せず
諸々の疑惑を超えた人──かれらはどのような解脱を
もとめたらよいのですか?」

1089 師(ブッダ)は答えた
トーデイヤよ。諸々の欲望のとどまることなく、もはや妄執が存在せず
諸々の疑惑を超えた人──かれには別に解脱は存在しない。」

1090 「かれは願いのない人なのでしょうか?
あるいは何かを希望しているのでしょうか?
かれは智慧があるのでしょうか?
あるいは智慧を得ようとはからいをする人なのでしょうか?
シャカ族の方よ。かれは聖者であることをわたくしが知り得るように
そのことをわたくしに説明してください。あまねく見る方よ。」

1091 [師いわく]「かれは願いのない人である。
かれはなにものをも希望していない。
かれは智慧のある人であるが
しかし智慧を得ようと、はからいをする人ではない。
トーデイヤよ。聖者はこのような人であると知れ。
かれは何も所有せず、欲望の生存に執著していない。」

十一、学生カッパの質問

1092 カッパさんがたずねた
「極めて恐ろしい激流が到来したときに一面の水浸しのうちにある人々
老衰と死とに圧倒されている人々のために
洲(避難所、よりどころ)を説いてください。
あなたは、この(苦しみ)がまたと起こらないような洲(避難所)を
わたしに示してください。親しい方よ。」

1093 師(ブッダ)は答えた
「カッパよ。極めて恐ろしい激流が到来したときに
一面の水浸しのうちにある人々、老衰と死とに圧倒されている
人々のための洲(避難所)を、わたしは、そなたに説くであろう。

1094 いかなる所有もなく、執著して取ることがないこと
──これが洲(避難所)にほかならない。
それをニルヴァーナと呼ぶ。それは老衰と死との消滅である。

1095 このことをよく知って、よく気をつけ
現世において全く煩いを離れた人々は、悪魔に伏せられない。
かれらは悪魔の従者とはならない。」

十二、学生ジャトゥカンニンの質問

1096 ジャトゥカンニンさんがたずねた
「わたくしは、勇士であって、欲望をもとめない人がいると聞いて
激流を乗り越えた人(ブッダ)に欲のないことをおたずねしようとして
ここに来ました。安らぎの境地を説いてください。
生まれつき眼のある方よ。先生それを、あるがままに
わたくしに説いてください。

1097 師(ブッダ)は諸々の欲望を制してふるまわれます。
譬えば、光輝ある太陽が光輝によって大地にうち克つようなものです。
智慧ゆたかな方よ。智慧の少ないわたくしに理法を説いてください。
それをわたしは知りたいのです
──この世において生と老衰とを捨て去ることを。」

1098 師(ブッダ)は答えた
「ジャトゥカンニンよ。諸々の欲望に対する貪りを制せよ
──出離を安穏であると見て取り上げるべきものも
捨て去るべきものも、なにものも、そなたに存在してはならない」と。

1099 過去にあったもの(煩悩)を涸渇せしめよ。
未来にはそなたに何ものもないようにせよ。
中間においても、そなたが何ものにも執著しないならば
そなたは安らかにふるまう人となるであろう。

1100 バラモンよ。名称と形態とに対する貪りを全く離れた人には
諸々の煩悩は存在しない。
だから、かれは死に支配されるおそれがない。」

十三、学生バドラーヴダの質問

1101 バドラーヴダさんがたずねた
「執著の住所をすて、妄執を断ち、悩み動揺することがなく、歓喜をすて
激流を乗り越え、すでに解脱し、はからいをすてた
賢明な(あなた)に切にお願いします。

1102 健き人よ。あなたのおことばを聞こうと希望して
多数の人々が諸地方から集まってきましたが
竜(ブッダ)のおことばを聞いて、人々はここから立ち去るでしょう。
かれらのために善く説明してやってください。
あなたはこの理法をあるがままに知っておられるのですから。」

1103 師(ブッダ)は答えた
「バドラーヴダよ。上にも下にも横にでも中間にでも
執著する妄執をすっかり除き去れ。
世の中の何ものに執著しても、それによって悪魔が人につきまとうに至る。

1104 それ故に、修行者は明らかに知って、よく気をつけ
全世界においてなにものをも執してはならない
──死の領域に愛著を感じているこの人々を
<取る執著ある人々>であると観て。」

十四、学生ウダヤの質問

1105 ウダヤさんがたずねた
「瞑想に入って坐し、塵垢を離れ、為すべきことを為しおえ
煩悩の汚れなく、一切の事物の彼岸に達せられた(師)に
おたずねするために、ここに来ました。
無明を破ること、正しい理解による解脱、を説いてください。」

1106 師(ブッダ)は答えた
「ウダヤよ。愛欲と憂いとの両者を捨て去ること
沈んだ気持ちを除くこと、悔恨をやめること

1107 平静な心がまえと念いの清らかさ
──それは真理に関する思索にもとづいて起るものであるが──
これが、無明を破ること、正しい理解による解脱、であると
わたしは説く。」

1108 「世人は何によって束縛されているのですか?
世人をあれこれ行動させるものは何ですか?
何を断ずることによって安らぎ(ニルヴァーナ)があると
言われるのですか?」

1109 「世人は歓喜に束縛されている。
思わくが世人をあれこれ行動させるものである。
妄執を断ずることによって安らぎがあると言われる。」

1110 「どのように気をつけて行っている人の識別作用が
止滅するのですか?
それを先生におたずねするためにわたくしはやってきたのです。
あなたのそのおことばをお聞きしたいのです。」

1111 「内面的にも外面的にも感覚的感受を喜ばない人
このようによく気をつけて行っている人の識別作用が止滅するのである。」

十五、学生ポーサーラの質問

1112 ポーサーラさんがたずねた
「過去のことがらを説示し、悩み動揺することなく、疑惑を断ち
一切の事物を究めつくした(師)におたずねするために、ここに来ました。

1113 「物質的なかたちの想いを離れ、身体をすっかり捨て去り
内にも外にも『なにものにも存在しない』と観ずる人の智を
わたしはおたずねするのです。シャカ族の方よ。
そのような人はさらにどのように導かれねばなりませんか?」

1114 師(ブッダ)は答えた
「ポーサーラよ。すべての<識別作用の住するありさま>を
知りつくした全き人(如来)は、かれの存在するありさまを知っている。
すなわち、かれは解脱していて、そこをよりどころとしていると知る。

1115 無所有の成立するもとを知って
すなわち『歓喜は束縛である』ということを知って
それをこのとおりであると知って、それから(出て)
それについて静かに観ずる。
安立したそのバラモンは、この<ありさまに知る智>が存する。」

十六、学生モーガラージャの質問

1116 モーガラージャさんがたずねた
「わたくしはかってシャカ族の方に二度おたずねしましたが
眼ある方(釈尊)はわたくしに説明してくださいませんでした。
しかし『神仙(釈尊)は第三回目には説明してくださる』と
わたくしは聞いております。 

1117 この世の人々も、かの世の人々も、神々と、梵天の世界の者どもも
誉れあるあなたゴータマ(ブッダ)の見解を知ってはいません。

1118 このように絶妙な見者におたずねしようとしてここに来ました。
どのように世間を観察する人を、死王は見ることがないのですか?」

1119 (ブッダが答えた)
「つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って
世界が空なりと観ぜよ。
そうすれば死を乗り越えることができるであろう。
このように世界を観ずる人を、<死の王>は、見ることがない。」

十七、学生ビンギヤの質問

1120 ビンギヤさんがたずねた
「わたくしは年をとったし、力もなく、容貌も衰えています。
眼もはっきりしませんし、耳もよく聞こえません。
わたくしが迷ったままで途中で死ぬことのないようにしてください。
どうしたらこの世において生と老衰とを捨て去ることができるのですか?
そのことわりを説いてください。それをわたくしは知りたいのです。」

1121 師(ブッダ)は答えた
「ビンギヤよ。物質的な形態があるが故に、人々が害われるのを見るし
物質的な形態があるが故に、怠る人々は(病などに)悩まされる。
ビンギヤよ。それ故に、そなたは怠ることなく、物質的形態を捨てて
再び生存状態にもどらないようにせよ。」

1122 「四方と四維と上と下と、これらの十方の世界において
あなたに見られず聞かれず考えられずまた識られないものもありません。
どうか理法を説いてください。それをわたくしは知りたいのです
──どうしたらこの世において生と老衰とを捨て去ることを。」

1123 師は答えた
「ビンギヤよ。ひとびとは妄執に陥って苦悩を生じ
老いに襲われているのを、そなたは見ているのだから
それ故に、ビンギヤよ、そなたは怠ることなくはげみ
妄執を捨てて、再び迷いの生存にもどらないようにせよ。」

十八、一六学生の質問の結語

 師(ブッダ)は、マガダ国のパーサーカ霊地にとどまっておられたとき
以上のことを説かれ、(バーヴァリの)門弟である
一六人のバラモンに請われ問われる度ごとに、質問に対して解答をのべた。
もしもこれらの質問の一つ一つの意義をしり、理法を知り
理法にしたがって実践したならば、老衰と死との彼岸に達するであろう。
これらの教えは彼岸に達せしめるものであるから
それ故にこの法門は「彼岸にいたる道」と名づけられている。

1124 アジタと、ティッサ・メッテイヤと、プンナカと、メッタグーと
ドータカと、ウバシーヴァと、またヘーマカと

1125 トーデーヤとカッパとの両人と、賢者なるジャトゥカンニンと
バドラーヴダと、ウダヤと、ポーサーラ・バラモン
聡明なモーガラージャと、偉大な仙人であるピンギヤと──

1126 これらの人々は行いの完成した仙人である目ざめた人(ブッダ)のもとに
やってきて、みごとな質問を発して、ブッダなる最高の人に近づいた。

1127 かれらが質問を発したのに応じて
目ざめた人はあるがままに解答された。
聖者は、諸々の質問に対して解答することによって
諸々のバラモンを満足させた。

1128 かれらは、太陽の裔である目ざめた人・眼ある者(ブッダ)に満足して
優れた智慧ある人(目ざめた人)のもとで清らかな行いを修めた。

1129 一つ一つの質問に対して<目ざめた人>が説かれたように
そのように実践する人は、此岸から彼岸におもむくことであろう。

1130 最上の道を修める人は、此岸から彼岸におもむくであろう。
それは彼岸に至るための道である。
それ故に<彼岸にいたる道>と名づけられる。

1131 ピンギヤさんは(バーヴァリのもとに帰って、復命して)いった
「<彼岸に至る道>をわたくしは読誦しましょう。
無垢で叡智ゆたかな人(ブッダ)は
みずから観じたとおりに説かれました。
無欲で煩悩の叢林のない立派な方は
どうして虚妄を語られるでしょうか。

1132 塵垢と迷いを捨て去って、高慢と隠し立てとを捨てている(ブッダ)の
讃嘆を表わすことばを、さあ、わたくしは誉めたたえることにしましょう。

1133 バラモンよ。暗黒を払う<目ざめた人>(ブッダ)、あまねく見る人
世間の究極に達した人、一切の迷いの生存を超えた人、汚れのない人
一切の苦しみを捨てた人
──かれは真に<目ざめた人>(ブッダ)と呼ばれるに
ふさわしい人でありますが、わたくしはかれに近侍しました。

1134 たとえば鳥が疎な林を捨てて果実豊かな林に住みつくように
そのようにわたくしもまた見ることの少ない人々を捨てて
白鳥のように大海に到達しました。

1135 かつてゴータマ(ブッダ)の教えよりも以前に昔の人々が
『以前にはこうだった』『未来にはこうなるであろう』といって
わたくしに説き明かしたことは、すべて伝え聞きにすぎません。
それはすべて思索の紛糺を増すのみ。

1136 かれは独り煩悩の暗黒を払って坐し、高貴で、光明を放っています。
ゴータマは智慧ゆたかな人です。ゴータマは叡智ゆたかな人です。

1137 即時に効果の見られる、時を要しない法
すなわち煩悩なき<妄執の消滅>、をわたくしに説示しました。
かれに比すべき人はどこにも存在しません。」

1138 (バーヴァリがいった)
「ピンギヤよ。そなたは智慧ゆたかなゴータマ
叡智ゆたかなゴータマのもとから、瞬時でも離れて住むことができるのか?

1139 かれはまのあたり即時に実現され、時を要しない法
すなわち煩悩なき<妄執の消滅>、をそなたに説示した。
かれに比すべき人はどこにも存在しない。」

1140 (ピンギヤがいった)
バラモンさま。わたくしは、智慧ゆたかなゴータマ
叡智ゆたかなかのゴータマのもとから
瞬時でも離れて住むことができません。

1141 まのあたり即時に実現される、時を要しない法
すなわち煩悩なき<妄執の消滅>、をわたくしに説示されました。
かれに比すべき人はどこにも存在しません。

1142 バラモンさま。 わたくしは怠ることなく、昼夜に
心の眼を以てかれを見ています。かれを礼拝しながら夜を過ごしています
。ですから、わたくしはかれから離れて住んでいるのではないと思います。

1143 信仰と、喜びと、意と、念いとが、わたくしを
ゴータマの教えから離れさせません。
どちらの方角でも、智慧豊かな方のおもむかれる方角に
わたくしは傾くのです。

1144 わたくしは、もう老いて、気力も衰えました。
ですから、わが身はかしこにおもむくことはできません。
しかし想いを馳せて常におもむくのです。
バラモンさま。わたくしの心は、かれと結びついているのです。

1145 わたくしは汚泥の中に臥してもがきながら
洲から洲へと漂いました。
そうしてついに、激流を乗り超えた、汚れのない<完全にさとった人>
(正覚者)にお会いしたのです。」

1146 (師ブッダが現れていった)
「ヴァッカリやバドラーヴダやアーラヴィ・ゴータマが
信仰を捨て去ったように、そのように汝もまた信仰を捨て去れ。
そなたは死の領域の彼岸にいたるであろう。ピンギヤよ。」

1147 (ピンギヤはいった)
「わたくしは聖者のことばを聞いて
ますます心が澄む(=信ずる)ようになりました。
さとった人は、煩悩の覆いを開き、心の荒みなく、明察のあられる方です。

1148 神々に関してもよく熟知して
あれこれ一切のことがらを知っておられます。
師は、疑いをいだきまた言を立てる人々の質問を解決されます。

1149 どこにも譬(たと)うべきものなく、奪い去られず
動揺することのない境地に、わたくしは確かにおもむくことでしょう。
このことについて、わたくしには疑惑がありません。
わたくしの心がこのように確信して了解していることを、お認めください。」

<彼岸に至る道>の章おわる

八回にわたって誦える分量ある聖典のスッタニパータ終る。

スッタニパータ7

七、ティッサ・メッテイヤ      
八、パスーラ      
九、マーガンディヤ      
一〇、死ぬよりも前に
一一、争闘      
一二、並ぶ応答──小篇      
一三、並ぶ応答──長篇      
一四、迅速      
一五、武器を執ること      
一六、サーリプッタ         

七、ティッサ・メッテイヤ

814 ティッサ・メッテイヤさんがいった

──「きみよ。婬欲の交わりに耽る者の破滅を説いてください。
あなたの教えを聞いて、われらも独り離れて住むことを学びましょう。」

815 師(ブッダ)は答えた
「メッテイヤよ。婬欲の交わりに耽る者は教えを失い、邪な行いをする。
これはかれのうちにある卑しいことがらである。

816 かって独りで暮していたのに、のちに婬欲の交わりに耽る人は
車が道からはずれたようなものである。
世の人々はかれを『卑しい』と呼び、また『凡夫』と呼ぶ。

817 かつてかれのもっていた名誉も名声も、すべて失われる。
このことわりを見たならば、婬欲の交わりを断つことを学べ。

818 かれは諸々の(欲の)想いに囚われて、困窮者のように考えこむ。
このような人は、他人から届く非難の声を聞いて恥いってしまう。

819 そうして他人に詰められたときには虚言に陥る。
すなわち、[自らを傷つける]刃(悪行)をつくるのである。
これがかれの大きな難所である。

820 独りでいる修行をまもっていたときは
一般に賢者と認められていた人でも
もしも婬欲の交わりに耽ったならば、愚者のように悩む。

821 聖者はこの世で前後にこの災いのあることを知り
独りでいる修行を堅くまもれ。婬欲の交わりに耽ってはならない。

822 (俗事から)離れて独り居ることを学べ。
これは諸々の聖者にとって最上のことがらである。
(しかし)これだけで『自分が最上の者だ』と考えてはならない
──かれは安らぎに近づいているのだが。

823 聖者は諸々の欲望を顧みることなく、それを離れて修行し
激流を渡りおわっているので、諸々の欲望に束縛されている人々は
かれを羨むのである。」──

八、パスーラ

824 かれらは「ここにのみ清らかさがある」と言い張って
他の諸々の教えが清らかでないと説く。
「自分が依拠しているもののみを善である」と説きながら
それぞれ別々の真理に固執している。

825 かれらは論議を欲し、集会に突入し
相互に他人を<愚者である>と烙印し
他人(師など)をかさに着て論争を交わす
──みずから真理に達したものであると称しながら
自分が称賛されるようにと望んでいる。

826 集会の中で論争に参加した者は、称賛されようと欲して
おずおずしている。そうして敗北してはうちしおれ
(論敵の)あらさがしをしているのに、(他人から)論難されると、怒る。

827 諸々の審判者がかれの所論に対し
「汝の議論は敗北した。論破された」というと
論争に敗北した者は嘆き悲しみ
「かれはわたしを打ち負かした」といい悲泣する。

828 これらの論争が諸々の修行者の間に起こると
これらの人々には得意と失意とがある。
ひとはこれを見て論争をやめるべきである。
称賛を得ること以外には他に、なんの役にも立たないからである。

829 あるいはまた集会の中で議論を述べて、それについて称賛されると
心の中に期待したような利益を得て、かれはそのために喜んで
心が高ぶる。

830 心の高ぶりというものは、かれの害われる場所である。
しかるにかれは慢心・増上慢心の言をなす。
このことわりを見て、論争してはならない。
諸々の熟達せる人々は、「それによって清浄が達成される」とは
説かないからである。

831 たとえぱ王に養われてきた勇士が、相手の勇士を求めて
喚声を挙げて進んでゆくようなものである。
勇士よ。かの(汝にふさわしい、真理に達した人の)いるところに到れ。
相手として戦うべきものは、あらかじめ存在しないのである。

832 (特殊な)偏見を固執して論争し、「これのみが真実である」と
言う人々がいるならば、汝はかれに言え
──「論争が起っても、汝と対論する者はここにいない」と。

833 またかれらは対立を離脱して行い
一つの見解を[他の]諸々の偏見と抗争させない人々なのであるが
かれらに対して、あなたは何を得ようとするのか?
パスーラよ。かれらの間で、「最上のもの」として固執されたものは
ここには存在しないのである。

834 さてあなたは(「自分こそ勝利を得るであろう」と)思いをめぐらし
心中にもろもろの偏見を考えて
邪悪を掃い除いた人(ブッダ)と論争しようとやって来られたが
あなたも実にそれだけならば、それを実現することは、とてもできない。

九、マーガンディヤ

835 (師*1は語った)
「われは(昔さとりを開こうとした時に)
愛執と嫌悪と貪欲(という三人の悪女)を見ても
かれらと婬欲の交わりをしたいという欲望さえも起らなかった。
糞尿に満ちた身の(女が)そもそも何ものなのだろう。
わたくしはそれに足でさえも触れたくないのだ。」

836 (マーガンディヤがいった)
「もしもあなたが、多くの王者がもとめた女、このような宝が
欲しくないならば、あなたはどのような見解を
どのような戒律・道徳・生活法を、またどのような生存状態に
生まれかわることを説くのですか?」

837 師が答えた
「マーガンディヤよ。
『わたくしはこのことを説く』ということがわたくしにはない。
諸々の事物に対する執著を執著であると確かに知って
諸々の偏見における(過誤を)見て、固執することなく
省察しつつ内心の安らぎをわたくしは見た。」

838 マーガンディヤがいった
「聖者さま。あなたは考えて構成された偏見の定説を固執することなしに
<内心の安らぎ>ということをお説きになりますが
そのことわりを諸々の賢人はどのように説いておられるのでしょうか?」

839 師は答えた
「マーガンディヤよ。
『教義によって、学問によって、戒律や道徳によって
清らかになることができる』とは、私は説かない。
『教義がなくても、学問がなくても、戒律や道徳を守らないでも
清らかになることができる』とも説かない。
それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく
平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。(これが内心の平安である)」

840 マーガンディヤがいった
「もしも、『教義によっても、学問によっても、知識によっても
戒律や道徳によっても清らかになのことがではない』と説き
また『教義がなくても、学問がなくても、知識がなくても
戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができない』と
説くのであれば、それはばかばしい教えである、とわたくしは考えます。
教義によって清らかになることができる、と或る人々は考えます。」

841 師は答えた
「マーガンディヤよ。あなたは(自分の)教義にもとづいて
尋ね求めるものだから、執著したことがらについて迷妄に陥ったのです。
あなたはこの(内心の平安)について微かな想いをさえもいだいていない。
だから、あなたは(わたしの説を)『ばかばかしい』とみなすのです。

842 『等しい』とか『すぐれている』とか
あるいは『劣っている』とか考える人
──かれらはその思いによって論争するであろう。
しかしそれらの三種に関して動揺しない人
──かれには『等しい』とか、『すぐれている』とか
(あるいは『劣っている』とか)いう思いは存在しない。

843 そのバラモンはどうして
『(わが説は)真実である』と論ずるであろうか。
またかれらは『(汝の説は)虚偽である』といって
誰と論争するであろうか?
『等しい』とか『等しくない』とかいうことのなくなった人は
誰に論争を挑むであろうか。

844 家を捨てて、住所を定めずにさまよい
村の中で親交を結ぶことのない聖者は、諸々の欲望を離れ
未来に望みをかけることなく
人々に対して異論を立てて談論をしててはならない。

845 竜(修行完成者)は諸々の(偏見)を離れて世間を遍歴するのであるから
それらに固執して論争してはならない。
たとえば汚れから生える、茎に棘のある蓮が
水にも泥にも汚されないように、そのように聖者は平安を説く者であって
貪ることなく、欲望にも世間にも汚されることがない。

846 ヴェーダの達人は、見解についても、思想についても
慢心に至ることがない。
かれらの本性はそのようなものではないからである。
かれらは宗教的行為によっても導かれないし
また伝統的な学問によっても導かれない。

847 想いを離れた人には、結ぶ縛(いまし)めが存在しない。
智慧によって解脱した人には、迷いが存在しない。
想いと偏見とに固執した人々は、互いに衝突しながら
世の中をうろつく。」

十、死ぬよりも前に

848 「どのように見、どのような戒律をたもつ人が
『安らかである』と言われるのか?
ゴータマ(ブッダ)よ。おたずねしますが
その最上の人のことをわたくしに説いてください。」

849 師は答えた
「死ぬよりも前に、妄執を離れ、過去にこだわることなく
現在においてもくよくよと思いめぐらすことがないならば
かれは(未来に関しても)特に思いわずらうことがない。

850 かの聖者は、怒らず、おののかず、誇らず
あとで後悔するような悪い行いをなさず、よく思慮して語り
そわそわすることなく、ことばを慎しむ。

851 未来を願い求めることなく、過去を思い出して憂えることもない。
[現在]感官で触れる諸々の対象について
遠ざかり離れることを観じ、諸々の偏見に誘われることがない。

852 (貪欲などから)遠ざかり、偽ることなく、貪り求めることなく
慳みせず、傲慢にならず、嫌われず、両舌を事としない。

853 快いものに耽溺せず、また高慢にならず、柔和で、弁舌さわやかに
信ずることなく、なにかを嫌うこともない。

854 利益を欲して学ぶのではない。
利益がなかったとしても怒ることがない。
妄執のために他人に逆らうことなく、美味に耽溺することもない。

855 平静であって、常によく気をつけていて、世間において
(他人を自分と)等しいとも思わない。
また自分が勝れているとも思わないし、また劣っているとも思わない。
かれは煩悩の燃え盛ることがない。

856 依りかかることのない人は
理法を知ってこだわることがないのである。
かれには、生存の断滅のために妄執も存在しない。

857 諸々の欲望を顧慮することのない人
──かれこそ<平安なる者>である、とわたしは説く。
かれには締めの結び目は存在しない。
かれはすでに執著を渡り了えた。

858 かれには、子も、家畜も、田畑も、地所も存在しない。
すでに得たものも、捨て去ったものも、かれのうちには認められない。

859 世俗の人々、または道の人・バラモンどもが
かれを非難して(貪りなどの過)があるというであろうが
かれはその(非難)を特にきにかけることはない。
それ故に、かれは論議されても、動揺することがない。

860 聖者は貪りを離れ、慳みすることなく
『自分は勝れたものである』とも、『自分は等しいものである』とも
『自分は劣ったものである』とも論ずることがない。
かれは分別を受けることのないものであって、妄想分別におもむかない。

861 かれは世間において<わがもの>という所有がない。
また無所有を嘆くこともない。
かれは[欲望に促されて]、諸々の事物に赴くこともない。
かれは実に<平安なる者>と呼ばれる。」

十一、争闘

862 「争闘と争論と悲しみと憂いと慳みと慢心と傲慢と悪口は
どこから現われ出たのですか?これはどこから起ったのですか?
どうか、それを教えてください。」 

863 「争闘と争論と悲しみと憂いと慳(ものおし)みと
慢心と傲慢と悪口とは愛し好むものにもとづいて起る。
争闘と争論とは慳みに伴い、争論が生じたときに、悪口が起る。」

864 「世間において、愛し好むものは何にもとづいて起るのですか。
また世間にははびこる貪りは何にもとづいて起るのですか?
また人が来世に関していだく希望とその成就とは
何にもとづいて起るのですか?」

865 「世の中で愛し好むもの及び世の中にはびこる貪りは
欲望にもとづいて起る。
また人が来世に関していだく希望と成就とは、それにもとづいて起る。」

866 「さて世の中で欲望は何にもとづいて起るのですか?
また(形而上学的な)断定は何から起るのですか?
怒りと虚言と疑惑と及び<道の人>(沙門)の説いた諸々のことがらは
何から起こるのですか?」

867 「世の中で<快><不快>と称するものに依って、欲望が起る。
諸々の物質的存在には生起と消滅とのあることを見て
世の中には<外的な事物にとらわれた>断定を下す。

868 怒りと虚言と疑惑
──これらのことがらも、(快と不快との)二つがあるときに現れる。
疑惑ある人は知識の道に学べ。
<道の人>は、知って、諸々のことがらを説いたのである。」

869 「快と不快とは何にもとづいて起るのですか?
また何がないときにこれらのものが現れないのですか?
また生起と消滅ということの意義と
それの起こるもととなっているものを、われに語ってください。」

870 「快と不快とは、感官による接触にもとづいて起る。
感官の接触が存在しないときには、これらのものも起こらない。
生起と消滅ということの意義と、それの起こるもととなっているもの
(感官による接触)を、われは汝に告げる。」

871 「世の中で感覚による接触は何にもとづいて起るのですか?
また所有欲は何から起こるのですか?
何ものが存在しないときに
<わがもの>という我執が存在しないのですか?

872 「名称と形態とに依って感官による接触が起こる。
諸々の所有欲は欲求を縁として起る。
欲求がないときには、<わがもの>という我執も存在しない。
形態が消滅したときには<感官による接触>ははたらかない。」

873 「どのように修行した者にとって、形態が消滅するのですか?
楽と苦とはいかにして消滅するのですか?
どのように消滅するのか、その消滅するありさまを
わたくしに説いてください。わたくしはそれを知りたいものです
──わたくしはこのように考えました。」

874 「ありのままに想う者でもなく、誤って想う者でもなく
想いなき者でもなく、想いを消滅した者でもない
──このように理解した者の形態は消滅する。

875 「われらがあなたにおたずねしたことを
あなたはわれわれに説き明かしてくださいました。
われらは別のことをあなたにおたずねしましょう。
どうか、それを説いてください。

──この世における或る賢者たちは
『この状態だけが、霊の最上の清浄の境地である』とわれらに語ります。
しかしまた、それよりも以上に、『他の(清浄の境地)がある』と
説く人々もいるのでしようか?」

876 「この世において或る賢者たちは
『霊の最上の清浄の境地はこれだけのものである』と語る。
さらにかれらのうちの或る人々は断滅を説き
(精神も肉体も)残りなく消滅することのうち
(最上の清浄の境地がある)と、巧みに語っている。

877 かの聖者は、『これらの偏見はこだわりがある』と知って
諸々のこだわりを塾考し、知った上で、解脱せる人は論争におもむかない。
思慮ある賢者は種々なる変化的生存を受けることがない。」

十二、並ぶ応答─小篇

878 (世の学者たちは)めいめいの見解に固執して
互いに異なった執見をいだいて争い
(みずから真理への)熟達者であると称して、さまざまに論ずる
──「このように知る人は真理を知っている。
これを非難する人はまだ不完全な人である」と。

879 かれらはこのように異なった執見をいだいて論争し
「論敵は愚者であって、真理に達した人でない」と言う。
これらの人々はみな「自分こそ真理に達した人である」と語っているが
これらのうちで、どの説が真理なのであろうか?

880 もしも論敵の教えを承認しない人が愚者であって、低級な者であって
智慧の劣った者であるならば、これらの人々はすべて
(各自の)偏見を固執しているのであるから、かれらはすべて愚者であり
ごく智慧の劣った者であるということになる。

881 またもし自分の見解によって清らかとなり、自分の見解によって
真理に達した人、聡明な人となるのであるのならば
かれらのうちには知性のない者はだれもいないことになる。
かれらの見解は(その点で)等しく完全であるから。

882 諸々の愚者が相互に他人に対していうことばを聞いて
わたくしは「これは真実である」とは説かない。
かれらは各自の見解を真実であるとみなしたのだ。
それ故にかれらは他人を「愚者」であると決めつけるのである。

883 或る人々が「真理である、真実である」と言うところの
その(見解)をば、他の人々が「虚偽である、虚妄である」と言う。
このようにかれらは異なった執見をいだいて論争する。
何故に諸々の<道の人>は同一の事をを語らないのであろうか?

884 真実は一つであって、第二のものは存在しない。
その(真理)を知った人は、争うことがない。
かれらはめいめい異なった真理をほめたたえあっている。
それ故にもろもろの<道の人>は同一の事を語らないのである。

885 みずから真理に達した人であると自称して語る論者たちは
何故に種々異なった真理を説くのであろうか?
かれは多くの種々異なった真理を(他人から)聞いたのであるか?
あるいはまたかれらは自分の思索に従っているのであろうか?

886 世の中には、多くの異なった真理が永久に存在しているのではない。
ただ永久のものだと想像しているだけである。
かれらは、諸々の偏見にもとづいて思索考研を行って
「(わが説は)真理である」「(他人の説は)虚妄である」と
二つのことを説いているのである。

887 偏見や伝承の学問や戒律や誓いや思想や、これらに依存して
(他の説を)蔑視し、(自己の学説の)断定的結論に立って喜びながら
「反対者は愚人である、無能な奴だ」という。

888 反対者を(愚者)であると見なすとともに
自己を<真理に達した人>であるという。かれはみずから自分を
<真理に達した人>であると称しながら、他人を蔑視し、そのように語る。

889 かれは過った妄見を以てみたされ、驕慢によって狂い
自分は完全なものであると思いなし、みずからの心のうちでは
自分を賢者だと自認している。
かれのその見解は、(かれによれば)そのように完全なものだからである。

890 もしも、他人が自分を(「愚劣だ」と)呼ぶが故に
愚劣となるのであれば、その(呼ぶ人)自身は(相手と)ともに
愚劣な者となる。
また、もしも自分でヴェーダの達人・賢者と称しているのであれば
諸々の、<道の人>のうちには愚者は一人も存在しないことになる。

891 「この(わが説)以外の他の教えを宣説する人々は
清浄に背き、<不完全な人>である」と
一般の諸々の異説の徒はこのようにさまざまに説く。
かれは自己の偏見に耽溺して汚れに染まっているからである。

892 ここ(わが説)にのみ清浄があると説き
他の諸々の教えには清浄がないと言う。
このように一般の諸々の異説の徒はさまざまに執著し
かの自分の道を堅くまもって論ずる。

893 自分の道を堅くたもって論じているが
ここに他の何びとを愚者であると見ることができようぞ。
他(の説)を、「愚者である」、「不浄の教えである」、と説くならば
かれはみずから確執をもたらすであろう。

894 一方的に決定した立場に立ってみずから考え量りつつ
さらにかれは世の中で論争をなすに至る。
一切の(哲学的)断定を捨てたならば
人は世の中で確執を起こすことがない。

十三、並ぶ応答─長篇

895 これらの偏見を固執して、「これのみが真理である」と宣説する人々
──かれらはすべて他人からの非難を招く。
また、それについて(一部の人々から)称賛を博するだけである。

896 (たとえ称賛を得たとしても)それは僅かなものであって
平安を得ることができない。
論争の結果は(称賛と非難との)二つだけである、とわたしは説く。
この道理を見ても、汝らは、無論争の境地を安穏であると観じて
論争をしてはならない。

897 すべて凡俗の徒のいだく、これらの世俗的見解に
智者は近づくことがない。
かれは、見たり聞いたりしたことがらについて
「これだ」と認め知ることがないから、こだわりがない。
かれはそもそもどんなこだわりに赴くのであろうか?

898 戒律を最上のものと仰いでいる人々は
「制戒によって清浄が得られる」と説き、誓戒を受けている。
「われわれはこの教えで学びましょう。そうすれば清浄が得られるでしょう」といって、<真理に達した者>と称する人々は
流転する迷いの生存に誘いこまれる。

899 もしもかれが戒律や誓戒を破ったならば
かれは(戒律や誓戒の)つとめにそむいて、おそれおののく。
(それのみならず)かれは「こうしてのみ清浄が得られる」と
となえて望み求めている。
たとえば隊商からはぐれた(商人が隊商をもとめ)
家から旅立った(旅人が家をもとめる)ようなものである。

900 一切の戒律や誓いをも捨て
(世間の)罪過あり或いは罪過なき(宗教的)行為をも捨て
「清浄である」とか「不浄であると」とかいってねがい求めることもなく
それらにとらわれずに行え
──安らぎを固執することもなく。

901 あるいは、ぞっとする苦行にもとづき、あるいは見たこと
学んだこと、思索したことにもとづき、声を高くして清浄を讃美するが
妄執を離れていないので、移りかわる種々なる生存のうちにある。

902 ねがい求める者は欲念がある。
また、はからいのあるときには、おののきがある。
この世において死も生も存しない者
──かれは何を怖れよう、何を欲しよう。

903 或る人々が「最高の教えだ」と称するものを
他の人々は「下劣なものである」と称する。
これらのうちで、どれが真実の説であるのか?
──かれはすべて自分らこそ真理に達した者である称しているのであるが。

904 かれらは自分の教えを「完全である」と称し
他人の教えを「下劣である」という。
かれらはこのように互いに異った執見をいだいて論争し
めいめい自分の仮説を「真実である」と説く。

905 もしも他人に非難されているが故に下劣なのであるというならば
諸々の教えのうちで勝れたものは一つもないことになろう。
けだし世人はみな自己の説を堅く主張して
他人の教えを劣ったものだと説いているからである。

906 かれらは自分の道を称賛するように、自己の教えを尊重している。
しからば一切の議論がそのとおり真実であるということになるであろう。
かれらはそれぞれ清浄となるからである。

907 (真の)バラモンは、他人に導かれるということがない。
また諸々のことがらについて断定をして固執することもない。
それ故に、諸々の論争を超越している。
他の教えを最も勝れたものだと見なすこともないからである。

908 「われは知る。われは見る。これはそのとおりである」
という見解によって清浄になることができる、と或る人々は理解している。
たといかれが見たとしても、それがそなたにとって、何の用があるだろう。
かれらは、正しい道を踏みはずして、他人によって清浄となると説く。

909 見る人は名称と形態とを見る。また見てはそれらを
(常住または安楽であると)認めるであろう。
見たい人は、多かれ少かれ、それらを(そのように)見たらよいだろう。
真理に達した人々は、それ(を見ること)によって
清浄になるとは説かないからである。

910 (「われは知る」「われは見る」ということに)執著して論ずる人は
みずから構えた偏見を尊重しているので、かれを導くことは容易ではない。
自分の依拠することがらのみ適正であると説き
そのことがらに(のみ)清浄(となる道)を認める論者は
そのように(一方的に)見たのである。

911 バラモンは正しく知って、妄想分別におもむかない。
見解に流されず、知識にもなずまない。
かれは凡俗のたてる諸々の見解を知って、心にとどめない
──他の人々はそれに執著しているのだが。──

912 聖者はこの世で諸々の束縛を捨て去って
論争が起こったときにも、党派にくみすることがない。
かれは不安な人々のうちにあっても安らいで、泰然として
執することがない
──他の人々はそれに執著しているのだが。──

913 過去の汚れを捨てて、新しい汚れをつくることなく
欲におもむかず、執著して論ずることもない。
賢者は諸々の偏見を離脱して、世の中に汚されることなく
自分を責めることもない。

914 見たり、学んだり、考えたりしたどんなことについてでも
賢者は一切の事物に対して敵対することがない。
かれは負担をはなれて解放されている。
かれははからいをなすことなく、快楽に耽ることなく、求めることもない。

十四、迅速

915 [問うていわく──]
「・・・・修行者はどのように観じて、世の中のものを執することなく
安らいに入るのですか?」

916 師(ブッダ)は答えた
「<われは考えて、有る>という
<迷わせる不当な思惟>の根本をすべて制止せよ。
内に存するいかなる妄執をもよく導くために、常に心して学べ。

917 内的にでも外的にでも、いかなることがらをも知りぬけ。
しかしそれによって慢心を起こしてはならない。
それが安らいであるとは真理に達した人々は説かないからである。

918 これ(慢心)によって『自分は勝れている』と思ってはならない。
『自分は劣っている』とか、また『自分は等しい』とか思ってはならない。
いろいろの質問を受けても、自己を妄想せずにおれ。

919 修行者は心のうちが平安となれ。外に静穏を求めてはならない。
内面的に平安となった人には取り上げられるものは存在しない。
どうして捨てられるものがあろうか。

920 海洋の奥深いところでは波が起こらないで、静止しているように
静止して不動であれ。
修行者は何ものについても欲念をもり上げてはならない。」

921[質問者はいわく]
「眼を開いた人は、みずから体験したことがら
危難の克服、を説いてくださいました。
ねがわくは正しい道を説いてください。
戒律規定や、精神安定の法をも説いてください。」

922 [師いわく]
「眼で見ることを貪ってはならない。卑俗な話から耳を遠ざけよ。
味に耽溺してはならない。世間における何ものをも
わがものであるとみなして固執してはならない。

923 苦痛を感じるときがあっても、修行者は決して悲嘆してはならない。
生存を貪り求めてはならない。
恐ろしいものに出会っても、慄えてはならない。

924 食物や飲料や堅い食べものや衣服を得ても、貯蔵してはならない。
またそれらが得られないからとて心配してはならない。

925 こころを安定させよう。うろついてはならない。
あとで後悔するようなことをやめよ。怠けてはならなぬ。
そうして修行者は閑静な座所・臥所に住むべきである。

926 多く眠ってはならぬ。熱心に努め、目ざめているべきである。
ものぐさと偽りと談笑と遊戯と婬欲の交わりと装飾とを捨てよ。

927 わが徒は、アユルヴァーダの呪法と夢占いと相の占いとを
行ってはならない。
鳥獣の声を占ったり、懐妊術や医術を行ったりしてはならない。 

928 修行者は、非難されても、くよくよしてはならない。
称讃されても、高ぶってはならない。貪欲と慳みと怒りと悪口を除き去れ。

929 修行者は、売買に従事してはならない。決して誹謗をしてはならない。
また村の人々と親しく交わってはならない。
利益を求めて人々に話しかけてはならない。

930 また修行者は高慢であってはならない。
また(自分の利益を得るために)遠廻しに策したことばを語ってはならない。
傲慢であってはならない。不和をもたらす言葉を語ってはならない。 

931 虚言をなすことなかれ
知りながら詐(いつわ)りをしないようにせよ。
また生活に関しても、知識に関しても、戒律や道徳に関しても
自分が他人よりもすぐれていると思ってはならない。

932 諸々の出家修行者や色々言い立てる世俗人に辱しめられ
その(不快な)ことばを多く聞いても
荒々しいことばを以て答えてはならない。
立派な人々は敵対的な返答をしないからである。

933 修行者はこの道理を知って、よく弁えて、つねに気をつけて学べ。
諸々の煩悩の消滅した状態が「安らぎ」であると知って
ゴータマ(ブッタ)の教えにおいて怠ってはならない。

934 かれは、みずから勝ち、他にうち勝たれることがない。
他人から伝え聞いたのではなくて、みずから証する理法を見た。
それ故に、かの師(ブッタ)の教えに従って、怠ることなく
つねに礼拝して、従い学べ。」

──このように師(ブッダ) はいわれた。

十五、武器を執ること

935 殺そうと争闘する人々を見よ。
武器を執って打とうとしたことから恐怖が生じたのである。
わたくしがぞっとしてそれを厭い離れたその衝撃を宣べよう。

936 水の少ないところにいる魚のように、人々が慄えているのを見て
また人々が相互に抗争しているのを見て、わたくしに恐怖が起った。

937 世界はどこでも堅実ではない。どの方角でもすべて動揺している。
わたくしは自分のよるべき住所を求めたのであるが
すでに(死や苦しみなどに)とりつかれていないところを見つけなかった。

938 (生きとし生けるものは)終極においては違逆に会うのを見て
わたくしは不快になった。
またわたくしはその(生けるものどもの)心の中に
見がたき煩悩の矢が潜んでいるのを見た。

939 この(煩悩の)矢に貫かれた者は、あらゆる方角をかけめぐる。
この矢を抜いたならば、(あちこちを)駆けめぐることもなく
沈むこともない。

940 そこで次に実践のしかたが順次に述べられる
──世間における諸々の束縛の絆にほだされてはならない。
諸々の欲望を究めつくして、自己の安らぎを学べ。

941 聖者は誠実であれ。傲慢でなく、詐りなく、悪口を言わず
怒ることなく、邪まな貪りと慳みとを超えよ。

942 安らぎを心がける人は、眠りとものぐさとふさぎこむ心とにうち勝て。
怠惰を宿らせてはならぬ。高慢な態度をとるな。

943 虚言をつくように誘い込まれるな。美しいすがたに愛著を起すな。
また慢心を知りつくしてなくすようにせよ。
粗暴になることなく、ふるまえ。

944 古いものを喜んではならない。
また新しいものに魅惑されてはならない。
滅びゆくものを悲しんではならない。
牽引する者(妄執)にとらわれてはならない。

945 わたくしは、(牽引する者のことを)貪欲、ものすごい激流と呼び
吸い込む欲求と呼び、はからい、捕捉と呼び
超えがたい欲望の汚泥であるともいう。

946 バラモンである聖者は、真実から離れることなく
陸地(安らぎ)に立っている。
かれは一切を捨て去って、「安らぎになった人」と呼ばれる。

947 かれは智者であり、ヴェーダの達人である。
かれは理法を知りおわって、依りかかることがない。
かれは世間において正しくふるまい、世の中で何びとをも羨むことがない。

948 世間における諸々の欲望を超え
また克服しがたい執著を超えた人は、流されず、束縛されず
悲しむことなく、思いこがれることもない。

949 過去にあったもの(煩悩)を涸渇せしめよ。
未来には汝に何ものも有らぬようにせよ。
中間においても汝が何ものをも執しないならば
汝は「安らかな人」としてふるまうことであろう。

950 名称と形態について、<わがものという思い>の全く存在しない人
また(何ものかが)ないからといって悲しむことのない人
──かれは実に世の中にあっても老いることがない。

951 「これはわがものである」また「これは他人のものである」
というような思いが何も存在しない人
──かれは(このような)<わがものという観念>が存しないから
「われになし」といって悲しむことがない。

952 苛酷なることなく、貪欲なることなく
動揺して煩悩に悩まされることなく、万物に対して平等である
──動じない人について問う人があれば
その美点をわたくしは説くであろう。

953 動揺して煩悩に悩まされることなく、叡智ある人にとっては
いかなる作為も存在しない。
かれはあくせくした営みから離れて、至るところに安穏を見る。

954 聖者は自分が等しい者どものうちにいるとも言わないし
劣った者のうちにいるとも、勝れた者のうちにいるとも言わない。
かれは安らいに帰し、取ることもなく、捨てることもない。

 ──と師は説かれた。

十六、サーリプッタ

955 サーリプッタさんが言った
「わたくしは未だ見たこともなく、また誰からも聞いたこともない
──このようにことば美わしき師(ブッダ)
衆の主がトゥシタ天から来りたもうたことを。

956 眼ある人(ブッダ)は、神々及び世人が見るように
一切の暗黒を除去して、独りで(法)楽をうけられた。

957 こだわりなく、偽りなく、このような範たる人として
来りたもうた師・目ざめた人(ブッダ)であるあなたのもとに
これらの束縛ある多くの者どものために問おうとして、ここに参りました。

958 修行者は世を厭うて、人のいない座所や樹下や墓地を愛し
山間の洞窟の中におり

959 または種々の座所のうちにいるのであるが
そこにはどんなに恐ろしいことがあるのだろう
──修行者は音のしないところに坐臥していても
それらを恐れて震えてはならないのだが。

960 未到の地におもむく人にとっては
この世にどれだけの危難があることだろう
──修行者は辺鄙なところに坐臥していても
それらの危難にうち克たなければならないのだが。

961 熱心につとめる修行者には、いかなることばを発すべきか?
ここでかれのふるまう範囲はいかにあるべきか?
かれのまもる戒律や誓いはどのようなものなのですか?

962 心を安定させ気を落ち着けている賢者は
どのような学脩を身に受けて、自分の汚れを吹き去るのですか?
──譬えば鍛冶工が銀の垢を吹き去るように。」

963 師(ブッダ)は答えた
サーリプッタよ。世を厭い、人なき所に坐臥し
さとりを欲する人が楽しむ境地および法にしたがって実践する次第を
わたくしの知り究めたところによって、そなたに説き示そう。

964 しっかりと気をつけ分限を守る聡明な修行者は
五種の恐怖におじけづいてはならない。
すなわち襲いかかる虻と蚊と爬虫類と四足獣と
人間(盗賊など)に触れることである。

965 異った他の教えを奉ずる輩を恐れてはならない
──たといかれらが多くの恐ろしい危害を加えるのを見ても
──また善を追求して、他の諸々の危難にうち勝て。

966 病いにかかり、餓えに襲われても
また寒冷や酷暑をも耐え忍ぶべきである。
たといそれらに襲われることがいろいろ多くても
勇気をたもって、堅固に努力をなすべきである。

967 盗みを行なってはならぬ。虚言を語ってはならぬ。
弱いものでも強いものでも(あらゆる生きものに)慈しみを以て接せよ。
心の乱れを感ずるときには、「悪魔の仲間」であると思って
これを除き去れ。

968 怒りと高慢とに支配されるな。それらの根を掘りつくしておれ。
また快いものも不快なものも、両者にしっかりと、うち克つべきである。

969 智慧をまず第一に重んじて、善を喜び、それらの危難にうち勝て。
奥まった土地に伏す不快に堪えよ。次の四つの憂うべきことに堪えよ。

970 すなわち『わたしは何を食べようか』『わたしはどこで食べようか』
『(昨夜は)わたしは眠りづらかった』『今夜はわたしはどこで寝ようか』
──家を捨て道を学ぶ人は、これら(四つの)憂いに導く思慮を抑制せよ。

971 適当な時に食物と衣服とを得て
ここで(少量に)満足するために(衣食の)量を知れ。
かれは衣食に関して恣(ほしい)ままならず、慎んで村を歩み
罵られてもあらあらしいことばを発してはならない。

972 眼を下に向けて、うろつき廻ることなく
瞑想に専念して大いにめざめておれ。
心を平静にして、精神の安定をたもち
思いわずらいと欲のねがいと悔恨とを断ち切れ。

973 他人からことばで警告されたときには、心を落ちつけて感謝せよ。
ともに修行する人々に対する荒んだ心を断て。善いことばを発せよ。
その時にふさわしくないことばを発してはならない。
人々をそしることを思ってはならぬ。

974 またさらに、世間には五つの塵垢がある。
よく気をつけて、それらを制するためにつとめよ。
すなわち色かたちと音声と味と香りと
触れられるものに対する貪欲を抑制せよ。

975 修行僧は、よく気をつけて、心もすっかり解脱して
これらのものに対する欲望を抑制せよ。
かれは適当な時に理法を正しく考察し、心を統一して、暗黒を滅ぼせ。」

 ──と師(ブッダ)はいわれた。

<八つの詩句の章>第四おわる

まとめの句

 欲望と、洞窟と、悪意と清浄と、最上と、老いと、メッテイヤとバスーラと、マーガンディヤと、死ぬよりも前にと、争闘と、二つの<並ぶ応答>と、迅速と、武器を執ることと、サーリプッタの質問とで、十六になる。

 これらの経はすべて<八つの詩句の章>である。

第五 彼岸に至る道の章

 

スッタニパータ6

一二、二種の観察 

第四 八つの詩句の章      

一、欲望      
二、洞窟についての八つの詩句      
三、悪意についての八つの詩句      
四、清浄についての八つの詩句      
五、最上についての八つの詩句      
六、老い      

十二、二種の観察

724 わたしが聞いたところによると
──或るとき尊師はサーヴァッティーの[郊外にある]東園にある
ミガーラ(長者)の母の宮殿のうちにとどまっておられた。
そのとき尊師(ブッダ)はその定期的集会(布薩)の日、十五日、満月の夜に
修行僧(比丘)の仲間に囲まれて屋外に住しておられた。
さて尊師は仲間が沈黙しているのを見まわしてかれらに告げていわれた──

 修行僧たちよ。善にして、尊く、出離を得させ
さとりにみちびく諸々の真理がある。
そなたたちが、『善にして、尊く、出離を得させ
さとりにみちびく諸々の真理を聞くのは、何故であるか』と
もしもだれかに問われたならば、かれに対しては
次のように答えねばならぬ
──『二種ずつの真理を如実に知るためである』と。
しからば、そなたたちのいう二種とは何であるか、というならば
『これは苦しみである。これは苦しみの原因である』というのが
一つの観察[法]である。
『これは苦しみの消滅に至る道である』というのが
第二の観察[法]である。
修行僧たちよ。このように二種[の観察法]を正しく観察して
怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては
二つの果報のうちのいずれか一つの果報が期待され得る。

 ──すなわち現世における<さとり>か、あるいは
煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないこと(不還)である。──

 尊師はこのように告げられた。
そして、幸せな師(ブッダ)は、さらにまた次のように説かれた。

724 苦しみを知らず、また苦しみの生起するもとを知らず
また苦しみのすべて残りなく滅びるところをも
また苦しみの消滅に達する道をも知らない人々、──

725 かれらは心の解脱を欠き、また智慧の解脱を欠く。
かれらは(輪廻を)終滅させることができない。
かれは実に生と老いとを受ける。

726 しかるに、苦しみを知り、また苦しみの生起するもとを知り
また苦しみのすべて残りなく滅びるところを知り
また苦しみの消滅に達する道を知った人々、──

727 かれらは、心の解脱を具現し、また智慧の解脱を具現する。
かれらは(輪廻を)終滅させることができる。
かれらは生と老いとを受けることがない。

 「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを
正しく観察することができるのか?』と、もしもだれかに問われたならば
『できる』と答えなければならない。どうしてであるか?
『およそ苦しみが生ずるのは、すべて素因に縁って起るのである』
というのが、一つの観察[法]である。
『しかしながら素因が残りなく離れ消滅するならば
苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。
このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで
専心している修行僧にとっては、二つの果報のうち
いずれか一つの果報が期待される。──すなわち現世における<さとり>か
あるいは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないことである。

 師(ブッダ)はこのように告げられた。
そうして、幸せな師(ブッダ)は、さらにまた次のように説かれた。

728 世間には種々なる苦しみがあるが
それらは生存の素因にもとづいて生起する。
実に愚者は知らないで生存の素因をつくり、くり返し苦しみを受ける。
それ故に、知り明らめて、苦しみの生ずる原因を観察し
再生の素因をつくるな。

 「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを
正しく観察することができるのか?』と、もしもだれかに問われたならば
『できる』と答えなければならない。どうしてであるか?
『どんな苦しみが生ずるのでも、すべて無明に縁って起るのである』
というのが、一つの観察[法]である。
『しかしながら無明が残りなく離れ消滅するならば
苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。
このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで
専心している修行僧にとっては、二つの果報のうち
いずれか一つの果報が期待され得る。
──すなわち現世における<さとり>か、あるいは煩悩の残りがあるならば
この迷いの生存にもどらないことである。」

 師(ブッダ)はこのように告げられた。
そうして、幸せな師はさらにまた次のように説かれた。

729 この状態から他の状態へと、くり返し生死輪廻に赴く人々は
その帰趣(行きつく先)は無明にのみ存する。

730 この無明とは大いなる迷いであり
それによって永いあいだこのように輪廻してきた。
しかし明知に達した生けるものどもは、再び迷いの生存に戻ることがない。

 「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを
正しく観察することができるのか?』ともしもだれかに問われたならば
『できる』と答えなければならない。どうしてであるか?
『およそ苦しみが生ずるのは、すべて潜在的形成力に縁って起るのである』
というのが、一つの観察[法]である。
『しかしながら潜在的形成力が残りなく離れ消滅するならば
苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。
このように二種(の観察法)を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで
専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちの
いずれか一つの果報が期待され得る。
──すなわち現世における<さとり>か、あるいは煩悩の残りがあるならば
この迷いの生存に戻らないことである。」──

 師(ブッダ)はこのように告げられた。
そうして、幸せな師はさらにまた次のように説かれた。

731 およそ苦しみが生ずるのは
すべて潜在的形成力を縁(原因)として起るのである。
諸々の潜在的形成力が消滅するならば、もはや苦しみの生ずることもない。

732 「苦しみは潜在的形成力の縁から起るものである」と
この災いを知って、一切の潜在的形成力が消滅し
(欲など)相を止めたならば、苦しみは消滅する。このことを如実に知って

733 正しく見、正しく知った諸々の賢者・ヴェーダの達人は
悪魔の繋縛にうち勝って、もはや迷いの生存に戻ることがない。

 「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを
正しく観察することができるのか?』と、もしもだれかに問われたならば
『できる』と答えなければならない。どうしてであるか?
『およそ苦しみが生ずるのは、すべて識別作用(識)に縁って起るのである』
というのが、一つの観察[法]である。
『しかしながら識別作用が残りなく離れ消滅するならば
苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。
このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで
専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちの
いずれか一つの果報が期待される。
──すなわち現世における<さとり>か、あるいは煩悩の残りがあるならば
この迷いの生存に戻らないことである。」──

 師(ブッダ)はこのように告げられた。
そうして、幸せな師はさらにまた次のように説かれた。

734 およそ苦しみが生ずるのは、すべて識別作用に縁って起るのである。
識別作用が消滅するならば
もはや苦しみが生起するということはあり得ない。

735 「苦しみは識別作用に縁って起るのである」と、この禍いを知って
識別作用を静まらせたならば、修行者は、快をむさぼることなく
安らぎに帰しているのである。

 「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを
正しく観察することができるのか?』と、もしもだれかに問われたならば
『できる』と答えなければならない。どうしてであるか?
『およそ苦しみが生ずるのは、すべて接触に縁って起るのである』
というのが、一つの観察[法]である。
『しかしながら接触が残りなく離れ消滅するならば
苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。
このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで
専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちの
いずれか一つの果報が期待される。
──すなわち現世における<さとり>か、あるいは煩悩の残りがあるならば
この迷いの生存に戻らないことである。」

師(ブッダ)はこのように告げられた。
そうして、幸せな師はさらにまた次のように説かれた。

736 接触にとらわれ、生存の流れにおしながされ、邪道を歩む人々は
束縛の消滅は遠いかなたにある。

737 しかし接触を熟知し理解して、平安を楽しむ人々は
実に接触がほろびるが故に、快を感ずることなく、安らぎに帰している。

 「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを
正しく観察することができるのか?』と、もしもだれかに問われたならば
『できる』と答えなければならない。どうしてであるか?
『およそ苦しみが生ずるのは、すべて感受に縁って起るものである』
というのが、一つの観察[法]である。
『しかしながら諸々の感受が残りなく離れ消滅するならば
苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。
このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで
専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちの
いずれか一つの果報が期待される。
──すなわち現世における<さとり>か、あるいは煩悩の残りがあるならば
この迷いの生存に戻らないことである。」──

 師(ブッダ)はこのように告げられた。
そうして、幸せな師はさらにまた次のように説かれた。

738 楽であろうと、苦であろうと、悲苦悲楽であろうとも
内的にも外的にも、およそ感受されたものはすべて

739 「これは苦しみである」と知って、滅び去るものである
虚妄の事物に触れるたびごとに、衰滅することを認め
このようにしてそれらの本性を識知する。
諸々の感受が消滅するが故に、修行僧は快を感ずることなく
安らぎに帰している。

 「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを
正しく観察することができるのか?』と、もしもだけかに問われたならば
『できる』と答えなければならない。どうしてであるか?
『およそ苦しみが生ずるのは、妄執(愛執)に縁って起るのである』
というのが、一つの観察[法]である。
『しかしながら妄執が残りなく離れ消滅するならば
苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。
このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで
専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちの
いずれか一つの果報が期待され得る。
──すなわち現世における<さとり>か、あるいは煩悩の残りがあるならば
この迷いの生存に戻らないことである。」──

 師(ブッダ)はこのように告げられた。
そうして、幸せに師はさらにまた次のように説かれた。

740 妄執を友としている人は、この状態からの状態へと永い間流転して
輪廻を超えることができない。

741 妄執は苦しみの起る原因である、とこの禍いを知って妄執を離れて
執著することなく、よく気をつけて、修行僧は遍歴すべきである。

 「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを
正しく観察することができるのか?』と、もしもだけかに問われたならば
『できる』と答えなければならない。どうしてであるか?
『およそ苦しみが生ずるのは、すべて執著に縁って起るのである。』
というのが、一つの観察[法]である。
『しかしながら諸々の執著が残りなく離れ消滅するならば
苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。
このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで
専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちの
いずれか一つの果報が期待され得る
──すなわち現世における<さとり>か、あるいは煩悩の残りがあるならば
この迷いの生存に戻らないことである。」──

 師(ブッダ)はこのように告げられた。
そうして、幸せな師はさらにまた次のように説かれた。

742 執著に縁って生存が起る。生存する者は苦しみを受ける。
生れた者は死ぬ。これが苦しみの起る原因である。

743 それ故に諸々の賢者は、執著が消滅するが故に、正しく知って
生まれの消滅したことを熟知して、再び迷いの生存にもどることがない。

 「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを
正しく観察することができるのか?』と、もしもだれかに問われたならば
『できる』と答えなければならない。どうしてであるか?
『およそ苦しみが生ずるのは、すべて起動に縁って起るのである。』
というのが、一つの観察[法]である。
『しかしながら諸々の起動が残りなく離れ消滅するならば
苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。
このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで
専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちの
いずれか一つの果報が期待され得る
──すなわち現世における<さとり>か、あるいは煩悩の残りがあるならば
この迷いの生存に戻らないことである。」──

 師(ブッダ)はこのように告げられた。
そうして、幸せな師はさらにまた次のように説かれた。

744 およそ苦しみが起るのは、すべて起動を縁として起る。
諸々の起動が消滅するならば、苦しみの生ずることもない。

745 「苦しみは起動の縁から起る」と、この禍いを知って
一切の起動を捨て去って、起動のないことにおいて解脱し

746 生存に対する妄執を断ち、心の静まった修行僧は
生をくり返す輪廻を超える。かれはもはや生存を受けることがない。

 「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを
正しく観察することができるのか?』と、もしもだけかに問われたならば
『できる』と答えなければならない。どうしてであるか?
『およそ苦しみが生ずるのは、すべて食料に縁って起るのである。』
というのが、一つの観察[法]である。
『しかしながら諸々の食料が残りなく離れ消滅するならば
苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。
このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで
専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちの
いずれか一つの果報が期待され得る
──すなわち現世における<さとり>か、或いは煩悩の残りがあるならば
この迷いの生存に戻らないことである。」──

 師(ブッダ)はこのように告げられた。
そうして、幸せな師はさらにまた次のように説かれた。

747 およそ苦しみが起るのは、すべて食料を縁として起る。
諸々の食料が消滅するならば、もはや苦しみの生ずることもない。

748 「苦しみは食料の縁から起る」と、この禍いを知って
一切の食料を熟知して、一切の食料にたよらない、

749 諸々の煩悩の汚れの消滅の故に無病の起ることを正しく知って
省察して(食料を)受用し、理法に住するヴェーダの達人は
もはや(迷いの生存者のうちに)数えられることがない。

 「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを
正しく観察することができるのか?』と、もしもだけかに問われたならば
『できる』と答えなければならない。どうしてであるか?
『およそ苦しみが生ずるのは、すべて動揺に縁って起るのである。』
というのが、一つの観察[法]である。
『しかしながら諸々の動揺が残りなく離れ消滅するならば
苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。
このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで
専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちの
いずれか一つの果報が期待され得る
──すなわち現世における<さとり>か、あるいは煩悩の残りがあるならば
この迷いの生存に戻らないことである。」──

 師(ブッダ)はこのように告げられた。
そうして、幸せな師はさらにまた次のように説かれた。

750 およそ苦しみが起るのは、すべて動揺を縁として起る。
諸々の動揺が消滅するならば、もはや苦しみの生ずることもない。

751 「苦しみは動揺の縁から起る」と、この禍いを知って
それ故に修行僧は(妄執の)動揺を捨て去って
諸々の潜在的形成力を制止して、無動揺・無執著で
よく気をつけて、遍歴すべきである。

 「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを
正しく観察することができるのか?』と、もしもだれかに問われたならば
『できる』と答えなければならない。どうしてであるか?
『従属するものは、たじろぐ。』というのが、一つの観察[法]である。
『従属しない者は、たじろかない』というのが第二の観察[法]である。
このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで
専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちの
いずれか一つの果報が期待され得る
──すなわち現世における<さとり>か、あるいは煩悩の残りがあるならば
この迷いの生存に戻らないことである。」──

 師(ブッダ)はこのように告げられた。
そうして、幸せな師はさらにまた次のように説かれた。

752 従属することのない人はたじろがない。
しかし従属することのある人は、この状態からあの状態へと執著していて
輪廻を超えることがない。

753 「諸々の従属の中に大きな危険がある」と、この禍いを知って
修行僧は、従属することなく、執著することなく、よく気をつけて
遍歴すべきである。

 「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを
正しく観察することができるのか?』と、もしもだけかに問われたならば
『できる』と答えなければならない。どうしてであるか?
『物理的領域よりも非物質的領域のほうが、よりいっそう静まっている』
というのが、一つの観察[法]である。
『非物質的領域よりも消滅のほうが、よりいっそう静まっている』
というのが第二の観察[法]である。
このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで
専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちの
いずれか一つの果報が期待され得る
──すなわち現世における<さとり>か、あるいは煩悩の残りがあるならば
この迷いの生存に戻らないことである。」──

 師(ブッダ)はこのように告げられた。
そうして、幸せな師はさらにまた次のように説かれた。

754 物質的領域に生まれる諸々の生存者と非物質的領域に住む
諸々の生存者とは、消滅を知らないので、再びこの世の生存に戻ってくる。

755 しかし物質的領域を熟知し、非物質的領域に安住し
消滅において解脱する人々は、死を捨て去ったのである。

 「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを
正しく観察することができるのか?』と、もしもだけかに問われたならば
『できる』と答えなければならない。どうしてであるか?
『神々と悪魔とともなる世界、道の人(沙門)・バラモン・神々
人間を含む諸々の生存者<これは真理である>と考えたものを
諸々の聖者は<これは虚妄である>と如実に正しい智慧をもって
よく観ずる』というのが、一つの観察[法]である。
『神々と悪魔とともなる世界、道の人・バラモン・神々
人間を含む諸々の生存者<これは虚妄である>と考えたものを
諸々の聖者は<これは真理である>と如実に正しい智慧をもって
よく観ずる』──これが第二の観察[法]である。
このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで
専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちの
いずれか一つの果報が期待され得る
──すなわち現世における<さとり>か、あるいは煩悩の残りがあるならば
この迷いの生存に戻らないことである。」──

 師(ブッダ)はこのように告げられた。
そうして、幸せな師はさらにまた次のように説かれた。

756 見よ、神々並びに世人は、非我なるものを我と思いなし
<名称と形態>(個体)に執著している。
「これこそ真実である」と考えている。

757 あるものを、ああだろう、こうだろう、と考えても
そのものは異なったものとなる。
何となれば、その(愚者の)その(考え)は虚妄なのである。
過ぎ去るものは虚妄なるものであるから。

758 安らぎは虚妄ならざるものである。
諸々の聖者はそれを真理であると知る。
かれらは実に真理をさとるが故に、
快をむさぼることなく平安に帰しているのである。

 「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを
正しく観察することができるのか?』と、もしもだれかに問われたならば
『できる』と答えなければならない。どうしてであるか?
『神々と悪魔とともなる世界、道の人(沙門)・バラモン・神々
人間を含む諸々の生存者<これは安楽である>と考えたものを
諸々の聖者は<これは苦しみである>と如実に正しい智慧をもって
よく観ずる』というのが、一つの観察[法]である。
『神々と悪魔とともなる世界、道の人・バラモン・神々
人間を含む諸々の生存者<これは苦しみである>と考えたものを
諸々の聖者は<これは安楽である>と如実に正しい智慧をもって
よく観ずる』──これが第二の観察[法]である。
このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで
専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちの
いずれか一つの果報が期待され得る
──すなわち現世における<さとり>か、あるいは煩悩の残りがあるならば
この迷いの生存に戻らないことである。」──

 師(ブッダ)はこのように告げられた。
そうして、幸せな師はさらにまた次のように説かれた。

759 有ると言われる限りの、色かたち、音声、味わい、香り
触れられるもの、考えられるものであって
好ましく愛すべく意に適うもの──

760 それらは実に、神々並びに世人には「安楽」であると
一般に認められている。また、それらが滅びる場合には
かれらはそれを「苦しみ」であると等しく認めている。

761 自己の身体(=個体)を断滅することが「安楽」である
と諸々の聖者は見る。(正しく)見る人々のこの(考え)は
一切の世間の人々と正反対である。

762 他の人々が「安楽」であると称するものを
諸々の聖者は「苦しみ」であると言う。
他の人々が「苦しみ」であると称するものを
諸々の聖者は「安楽」であると知る。
解し難き真理を見よ。無知なる人々はここに迷っている。

763 覆われた人々には闇がある。(正しく)見ない人々には暗黒がある。
善良な人々には開顕される。あたかも見る人々に
光明のあるようなものである。
理法がなにであるかを知らない獣(のような愚人)は
(安らぎの)近くにあっても、それを知らない。

764 生存の貪欲にとらわれて、生存の流れにおし流され
悪魔の領土に入っている人々には、この真理は実に覚りがたい。

765 諸々の聖者以外には、そもそも誰がこの境地を覚り得るのであろうか。
この境地を正しく知ったならば、煩悩の汚れのない者となって
まどかな平安に入るであろう。

 師(ブッダ)はこのように説かれた。
修行僧たちは悦んで師の諸説を歓喜して迎えた。
実にこの説明が述べられたときに、六十人の修行僧は執著がなくなって
心が汚れから解脱した。

[二種の観察]まとめの句

 真理(諦)と、生存の素因と、無明と、諸々の形成力と
第五に識別作用と、接触と、感受されるものと、妄執と、執著と
起動と、諸々の食と、動揺における震動と、物質的領域と
真理と苦とで、十六である。

<大いなる章>第三おわる

まとめの句

 出家と、つとめはげむことと、みごとに説かれたことと
スンダリカと、マーガと、サビヤと、セーラと、矢と、ヴァーセッタと
コーカーリヤと、ナーラカと、二種の観察と──

 これらの十二の経が「大いなる章」と言われる。

第四 八つの詩句の章

一、欲望

766 欲望をかなえたいと望んでいる人が、もしもうまくゆくならば
かれは実に人間の欲するものを得て、心に喜ぶ。

767 欲望をかなえたいと望み貪欲の生じた人が
もしも欲望をはたすことができなくなるならば
かれは、矢に射られたかのように悩み苦しむ。

768 足で蛇の頭を踏まないようにするのと同様に
よく気をつけて諸々の欲望を回避する人は、この世で執著をのり超える。

769 ひとが、田畑・宅地・黄金・牛馬・奴婢・傭人・婦女・親類
その他いろいろの欲望を貪り求めると

770 無力のように見えるもの(諸々の煩悩)がかれにうち勝ち
危い災難がかれをふみにじる。それ故に苦しみがかれにつき従う。
あたかも壊れた舟に水が侵入するように。

771 それ故に、人は常によく気をつけていて、諸々の欲望を回避せよ。
船のたまり水を汲み出すように、それらの欲望を捨て去って
激しい流れを渡り、彼岸に到達せよ。

二、洞窟についての八つの詩句

772 窟(自体)のうちにとどまり、執著し、多くの(煩悩)に覆われ
迷妄のうちに沈没している人
──このような人は、実に<遠ざかり離れること>(厭離)から
遠く隔たっている。
実に世の中にありながら欲望を捨て去ることは、容易ではないからである

773 欲求にもとづいて生存の快楽にとらわれている人々は、解脱しがたい。
他人が解脱させてくれるのではないからである。
かれらは未来をも過去をも顧慮しながら
これらの(目の前の)欲望または過去の欲望を貪る。

774 かれらは欲望を貪り、熱中し、溺れて、吝嗇で
不正になずんでいるが、(死時には)苦しみにおそわれて悲嘆する
──「ここで死んでから、われわれはどうなるのだろうか」と。

775 だから人はここにおいて学ぶべきである。
世間で「不正」であると知られているどんなことであろうとも
そのために不正を行なってはならない。
「ひとの命は短いものだ」と賢者たちは説いているのだ。

776 この世の人々が、諸々の生存に対する妄執にとらわれ
ふるえているのを、わたしは見る。
下劣な人々は、種々の生存に対する妄執を離れないで、死に直面して泣く。

777 (何ものかを)わがものであると執著して動揺している人々を見よ。
(かれらのありさまは)ひからびた流れの水の少ないところにいる
魚のようなものである。
これを見て、「わがもの」という思いを離れて行うべきである
──諸々の生存に対して執著することなしに。

778 賢者は、両極端に対する欲望を制し
(感官と対象との)接触を知りつくして、貪ることなく
自責の念にかられるような悪い行いをしないで
見聞することがらに汚されない。

779 想いを知りつくして、激流を渡れ。
聖者は、所有したいという執著に汚されることなく
(煩悩の)矢を抜き去って、勤め励んで行い
この世もかの世も望まない。

三、悪意についての八つの詩句

780 実に悪意をもって(他人を)誹る人々もいる。
また他人から聞いたことを真実だと思って(他人を)誹る人々もいる。
誹ることばが起こっても、聖者はそれに近づかない。
だから聖者は何ごとにも心の荒むことがない。

781 欲にひかれて、好みにとらわれている人は
どうして自分の偏見を超えることができるだろうか。
かれは、みずから完全であると思いなしている。
かれは知るにまかせて語るであろう。

782 人から尋ねられたのではないのに、他人に向かって
自分が戒律や道徳を守っていると言いふらす人は
自分で自分のことを言いふらすのであるから
かれは「下劣な人」である。と真理に達した人々は語る。

783 修行僧が平安となり、心が安静に帰して、戒律に関して
「わたしはこのようにしている」といって誇ることがないならば
世の中のどこにいても煩悩のもえ盛ることがないのであるから
かれは<高貴な人>である、と真理に達した人々は語る。

784 汚れた見解をあらかじめ設け、つくりなし、偏重して
自分のうちにのみ勝れた実りがあると見る人は
ゆらぐものにたよる平安に執著しているのである。

785 諸々の事物に関する固執(これはこれこれのものであると)
確かに知って、自己の見解に対する執著を超越することは容易ではない。
故に人はそれらの(偏執の)住居のうちにあって
ものごとを斥け、またこれを執る。

786 邪悪を掃い除いた人は、世の中のどこにいても
さまざまな生存に対してあらかじめいだいた偏見が存在しない。
邪悪を掃い除いた人は、いつわりと驕慢とを捨て去っているが
どうして(輪廻に)赴くであろうか?
かれはもはや頼り近づくものがないのである。

787 諸々の事物に関してたより近づく人は
あれこれの議論(誹り、噂さ)を受ける。
(偏見や執著に)たより近づくことのない人を、どの言いがかりによって
どのように呼び得るであろうか?
かれは執することもなく、捨てることもない。
かれはこの世にありながら一切の偏見を掃い去っているのである。

四、清浄についての八つの詩句

788 「最上で無病の、清らかな人をわたくしは見る。
人が全く清らかになるのは見解による」と
このように考えることを最上であると知って
清らかなことを観ずる人は、(見解を、最上の境地に達し得る)智慧である。

789 もしも人が見解によって清らかになり得るのであるならば
あるいはまた人が知識によって苦しみを捨て得るのであるならば
それは煩悩にとらわれている人が(正しい道以外の)他の方法によっても
清められることになるであろう。
このように語る人を「偏見ある人」と呼ぶ。

790 (真の)バラモンは、(正しい道の)ほかには
見解・伝承の学問・戒律・道徳・思想のうちのどれによっても
清らかになるとは説かない。
かれは禍福に汚されることなく、自我を捨て
この世において(禍福の因を)つくることがない。

791 前の(師など)を捨てて後の(師など)にたより
煩悩の動揺に従っている人々は、執著をのり超えることがない。
かれらは、とらえては、また捨てる。
猿が枝をとらえて、また放つようなものである。

792 みずから誓戒をたもつ人は、思いに耽って
種々多様なことをしようとする。
しかし智慧ゆたかな人は、ヴェーダ(実践的認識)によって知り
真理を理解して、種々多様なことをしようとしない。

793 かれは一切の事物について、見たり学んだり思索したことを制し
支配している。このように観じ、覆われることなしにふるまう人を
この世でどうして妄想分別させることができようか。

794 かれははからいをなすことなく、(何物かを)特に重んずることもなく
「これこそ究極の清らかなことだ」と語ることもない。
結ばれた執著のきずなをすて去って
世間の何ものについても願望を起すことがない。

795 (真の)バラモンは、(煩悩の)範囲をのり超えていてる。
かれが何ものかを知りあるいは見ても、執著することがない。
かれは欲を貪ることなく、また離欲を貪ることもない。
かれは(この世ではこれが最上のものである)と固執することもない。

五、最上についての八つの詩句

796 世間では、人は諸々の見解のうちで勝れているとみなす見解を
「最上のもの」であると考えて
それよりも他の見解はすべて「つまらないものである」と説く。
それ故にかれは諸々の論争を超えることがない。

797 かれ(=世間の思想家)は、見たこと・学んだこと
戒律や道徳・思索したことについて
自分の奉じていることのうちのみすぐれた実りを見、そこで
それだけに執著して、それ以外の他のものを全てつまらぬものと見なす。

798 ひとが何かものに依拠して「その他のものはつまらぬものである」
と見なすならば、それは実にこだわりである、と
<真実に達した人々>は語る。
それが故に修行者は、見たこと・学んだこと・思索したこと
または戒律や道徳にこだわってはならない。

799 智慧に関しても、戒律や道徳に関しても
世間において偏見をかまえてはならない。
自分を他人と「等しい」と示すことなく、他人より「劣っている」とか
或いは「勝れている」とか考えてはならない。

800 かれは、すでに得た(見解)[先入見]を捨て去って
執著することなく、学識に関しても特に依拠することをしない。
人々は(種々異なった見解に)分かれているが
かれは実に党派に盲従せず、いかなる見解をもそのまま信ずることがない。

801 かれはここで、両極端に対し、種々の生存に対し
この世についても、来世についても、願うことがない。
諸々の事物に関して断定を下して得た固執の住居は
かれには何も存在しない。

802 かれはこの世において、見たこと、学んだこと
あるいは思索したことに関して、微塵ほどの妄想をも構えていない。
いかなる偏見をも執することのないそのバラモン
この世においてどうして妄想分別させることができるであろうか?

803 かれらは、妄想分別をなすことなく
(いずれか一つの偏見を)特に重んずるということもない。
かれらは、諸々の教義のいすれかをも受け入れることもない。
バラモンは戒律や道徳によって導かれることもない。
このような人は、彼岸に達して、もはや還ってこない。

六、老い

804 ああ短いかな、人の生命よ。百歳にたっせずして死す。
たといそれよりも長く生きたとしても、また老衰のために死ぬ。

805 人々は「わがものである」と執著した物のために悲しむ。
(自己の)所有しているものは常住ではないからである。
この世のものはただ変滅するものである、と見て
在家にとどまってはならない。

806 人が「これはわがものである」と考える物
──それは(その人の)死によって失われる。
われに従う人は、賢明にこの理を知って
わがものという観念に屈してはならない。

807 夢の中で会った人でも、目がさめたならば
もはやかれを見ることができない。
それと同じく、愛したひとでも死んでこの世を去ったならば
もはや再び見ることはできない。

808 「何の誰それ」という名で呼ばれ、かつては見られ
また聞かれた人でも、死んでしまえば
ただ名が残って伝えられるだけである。

809 わがものとして執著したものを貪り求める人々は
憂いと悲しみと慳(物惜し)みとを捨てることがない。
それ故に諸々の聖者は、所有を捨てて行って
安穏(あんのん)をみたのである。

810 遠ざかり退いて行する修行者は、独り離れて座所に親しみ近づく。
迷いの生存の領域のうちに自己を現さないのが
かれにふさわしいことであるといわれる。

811 聖者はなにものにも滞ることなく、愛することもなく
憎むこともない。悲しみも慳みもかれを汚すことがない。
譬えば(蓮の)葉の上の水が汚されないようなものである。

812 たとえば蓮の上の水滴、あるいは蓮華の上の水が汚されないように
それと同じく聖者は、見たり学んだり思索したどんなことについても
汚されることがない。

813 邪悪を掃い除いた人は、見たり学んだり思索したどんなことでも
特に執著して考えることがない。
かれは他のものによって清らかになろうとは望まない。
かれは貪らず、また嫌うこともない。

七、ティッサ・メッテイヤ  

スッタニパータ5

九、ヴァーセッタ      
一〇、コーカーリヤ      
一一、ナーラカ

九、ヴァーセッタ

594  わたくしが聞いたところによると
──或るとき尊き師(ブッダ)はイッチャーナンガラ[村]の
イッチャーナンガラ林に住んでおられた。
そのとき、多くの著名な大富豪であるバラモンたちが
イッチャーナンガラ村に住んでいた。
すなわちチャンキンというバラモン、タールッカというバラモン
ポッカラサーティというバラモン、ジャーヌッソーニというバラモン
トーデーヤというバラモン及びその他の著名な大富豪である
バラモンたちであった。

 そのときヴァーセッタとバーラドヴァーシャという二人の青年が
(久しく坐していたために生じた疲労を除くために)
膝を伸ばすためにそぞろ歩きをあちこちで行っていた。

 かれらはたまたま次のような議論を始めた
「きみよ。どうしたらバラモンとなれるのですか?」

 バーラドヴァーシャ青年は次のように言った。
「きみよ。父かたについても母かたについても双方ともに
生れ(素姓)が良く、純粋な母胎に宿り、七世の祖先に至るまで
血統に関しては未だかって爪弾きされたことなく
かって非難されたことがないならば、まさにこのことによって
バラモンであるのである。」

 ヴァーセッタ青年は次のように言った
「きみよ。ひとが戒律をまもり徳行を身に具えているならば
まさにこのことによってバラモンであるのである。」

 [しかし]バーラドヴァーシャ青年はヴァーセッタ青年を
説得することができなかったし、またヴァーセッタ青年は
バーラドヴァーシャ青年を説得することができなかった。
そこでヴァーセッタ青年はバーラドヴァーシャ青年に告げて言った
「バーラドヴァーシャよ。シャカ族の子である<道の人>
ゴータマ(ブッダ)は、シャカ族の家から出家して、ここに
イッチャーナンガラ[村]のイッチャーナンガラ林のうちに住んでいる。
そのゴータマさまには次のような好い名声がおとずれている。
──すなわち、かの師は、尊敬さるべき人・目ざめた人
明知と行いとを具えた人・幸せな人・世間を知った人・無上の人
人々を調える御者・神々と人間との師・目ざめた人(ブッダ)
尊き師であるといわれる。
バーラドヴァーシャさん。さあ行こうよ。
<道の人>ゴータマのいるところに行こう。そこへ行ったら
<道の人>ゴータマにこのことがらを尋ねよう。
そうして<道の人>ゴータマがわれわれに解答してくれたとおりに
われわれはそれを承認しよう。」「そうしましょう」と
バーラドヴァーシャ青年はヴァーセッタ青年に答えた。

 そこでヴァーセッタ青年とバーラドヴァーシャ青年とは
師のいますところに赴いた。そうして、師に挨拶した。
喜ばしい、思い出についての挨拶のことばを交したのち
かれは傍らに坐した。
そこでヴァーセッタ・バラモンは次の詩を以て師に呼びかけた──

594 「われら両人は三ヴェーダの学者であると、(師からも)認められ
みずからも称しています。
わたくしはポッカラサーティの弟子であり
この人はタールッカの弟子です。

595 三ヴェーダに説かれていることがらを
われわれは完全に知っています。
われわれはヴェーダの語句と文法とに精通し
ヴェーダ読誦については師に等しいのです。

596 ゴータマよ。そのわれわれが生れの如何を論議して論争が起りました。
『生れによってバラモンなのである』とバーラドヴァーシャは語りますが、
わたくしは『行為によってバラモンとなるのである』と言います。
眼ある方よ。こういうわけなのだと了解してください。

597 われら両人は互いに相手を説得することができないのです。
そこで、<目ざめた人>(ブッダ)としてひろく知られているあなたさまに
たずねるために、やって来ました。

598 人々が満月に向って近づいて合掌し礼拝し敬うように、
世人はゴータマを礼拝し敬います。

599 世間の眼として出現したもうたゴータマに、われらはおたずねします。
生まれによってバラモンであるのでしょうか。
あるいは行為によってバラモンとなるのでしょうか?
われわれには解りませんから、話してください
──われわれがバラモンの何たるかを知りうるように。」

600 師が答えた
ヴェーダよ。そなたらのために、諸々の生物の生れ(種類の)区別を
順次にあるがままに説明してあげよう。
それらの生れは、いろいろと異なっているからである。

601 草や木にも(種類の区別のあることを)知れ。
しかしかれらは(「われは草である」とか、「我等は木である」とか)
言い張ることはないかれらの特徴は生まれにもとづいている。
かれらの生まれはいろいろと異なっているからである。

602 次に蛆虫や蟋蟀から蟻類に至るまでのものにも
(種類の区別のあることを)知れ。
かれらの特徴は生れにもとづいているのである。
かれらの生れは、いろいろと異っているからである。

603 小さいものでも、大きなものでも、四足獣にも
(種類の区別のあることを)知れ。
かれらの特徴は生れにもとづいているのである。
かれらの生れは、いろいろと異っているからである。

604 腹を足としていて背の長い
匍(は)うものにも(種類の区別のあることを)知れ。
かれらの特徴は生れにもとづいているのである。
かれらの生れは、いろいろと異っているからである。

605 次に、水の中に生まれ水に棲む魚どもにも
(種類の区別のあることを)知れ。
かれらの特徴は生れにもとづいているのである。
かれらの生れは、いろいろと異っているからである。

606 次に、翼を乗物として虚空を飛ぶ鳥どもにも
(種類の区別のあることを)知れ。
かれらの特徴は生れにもとづいているのである。
かれらの生れは、いろいろと異っているからである。

607 これらの生類には生まれにもとづく特徴はいろいろと異なっているが、
人類にはそのように生まれにもとづく特徴が
いろいろと異なっているということはない。

608 髪についても、頭についても、耳についても、眼についても
口についても、鼻についても、唇についても、眉についても、

609 首についても、肩についても、腹についても、背についても
臀についても、胸についても、隠所についても、交合についても、

610 手についても、足についても、指についても、脛につていも
腿についても、容色についても、音声についても
他の生類の中にあるような、生まれにもとづく特徴(の区別)は
(人類のうちには)決して存在しない。

611 身を禀(う)けた生きものの間ではそれぞれ区別があるが
人間の間ではこの区別は存在しない。
人間のあいだで区別表示が説かれるのは、ただ名称によるのみ。

612 人間のうちで、牧牛によって生活する人があれば
かれは農夫であって、バラモンではないと知れ。ヴァーセッタよ。

613 人間のうちで、種々の技能によって生活する人があれば
かれは職人であって、バラモンではないと知れ。ヴァーセッタよ。

614 人間のうちで売買をして生活する人があれば
かれは商人であって、バラモンではないと知れ。ヴァーセッタよ。

615 人間のうちで他人に使われて生活する者があれば
かれは傭人であって、バラモンではないと知れ。ヴァーセッタよ。

616 人間のうちで盗みをして生活する者があれば
かれは盗賊であって、バラモンではないと知れ。ヴァーセッタよ。

617 人間のうちで武術によって生活する者があれば
かれは武士であって、バラモンではないと知れ。ヴァーセッタよ。

618 人間のうちで司祭の職によって生活する者があれば
かれは司祭者であって、バラモンではないと知れ。ヴァーセッタよ。

619 人間のうちで村や国を領有する者があれば
かれは王であって、バラモンではないと知れ。ヴァーセッタよ。

620 われは、(バラモン女の)胎から生まれ
バラモンの)母から生まれた人をバラモンと呼ぶのではない。
かれは(きみよ、といって呼びかける者)といわれる。
かれは何か所有物の思いにとらわれている。
無一物であって執著のない人
──かれをわたしは(バラモン)と呼ぶ。

621 すべての束縛を断ち切り、怖れることなく、執著を超越して
とらわれることのない人──かれをわたしはバラモンと呼ぶ。

622 紐と革帯と綱とを、手綱ともども断ち切り
門をとざす閂(障礙)を減じて、目ざめた人(ブッダ)
──かれをわたくしはバラモンと呼ぶ。

623 罪がないのに罵られ、なぐられ、拘禁されるのを堪え忍び
忍耐の力あり、心の猛き人──かれをわたくしはバラモンと呼ぶ。

624 怒ることなく、つつしみあり、戒律を奉じ、欲を増すことなく
身をととのえ、最後の身体に達した人
──かれをわたくしはバラモンと呼ぶ。

625 蓮葉の上の露のように、錐(きり)の尖の芥子(けし)のように
諸々の欲情に汚されない人──かれをわたくしはバラモンと呼ぶ。

626 すでにこの世において自己の苦しみの滅びたことを知り
重荷をおろし、とらわれのない人──かれをわたくしはバラモンと呼ぶ。

627 明らかな智慧が深くて、聡明で、種々の道に通達し
最高の目的を達した人──かれをわたくしはバラモンと呼ぶ。

628 在家者・出家者のいずれとも交わらず、住家がなくて遍歴し
欲の少ない人──かれをわたくしはバラモンと呼ぶ。

629 強くあるいは弱い生きものに対して暴力を加えることなく
殺さず、また殺させることのない人──かれをわたくしはバラモンと呼ぶ。

630 敵意ある者どもの間にあって敵意なく
暴力を用いる者どもの間にあって心おだやかに
執著する者どもの間にあって執著しない人
──かれをわたくしはバラモンと呼ぶ。

631 芥子粒が錐の尖端から落ちたように
愛著と憎悪と高ぶりと隠し立てとが脱落した人
──かれをわたくしはバラモンと呼ぶ。

632 粗野ならず、ことがらをはっきりと伝える真実のことばを発し
ことばによって何人の感情をも害することのない人
──かれをわたくしはバラモンと呼ぶ。

633 この世において、長かろうと短かろうと
微細であろうとも粗大であろうとも、浄かろうとも不浄であろうとも
すべて与えられていない物を取らない人
──かれをわたくしはバラモンと呼ぶ。

634 現世を望まず、来世をも望まず、欲求もなくて、とらわれのない人、──かれをわたしはバラモンと呼ぶ。

635 こだわりあることなく、さとりおわって、疑惑なく
不死の底に達した人──かれをわたくしはバラモンと呼ぶ。

636 この世の禍福いずれにも執著することなく、憂いなく、汚れなく
清らかな人──かれをわたくしはバラモンと呼ぶ。

637 曇りのない月のように、清く、澄み、濁りがなく
歓楽の生活の尽きた人──かれをわたくしはバラモンと呼ぶ。

638 この傷害・険道・輪廻(さまよい)・迷妄を超えて
渡りおわって彼岸に達し、瞑想し、興奮することなく
執著がなくて、心安らかな人──かれをわたくしはバラモンと呼ぶ。

639 この世の欲望を断ち切り、出家して遍歴し、欲望の生活の尽きた人
──かれをわたくしはバラモンと呼ぶ。

640 この世の愛執を断ち切り、出家して遍歴し、愛執の生活の尽きた人
──かれをわたくしはバラモンと呼ぶ。

641 人間の絆を捨て、天界の絆を超え、すべての絆をはなれた人
──かれをわたしは(バラモン)と呼ぶ。

642 <快楽>と<不快>とを捨て、清らかに涼しく、とらわれることなく
全世界にうち勝った健き人──かれをわたしは(バラモン)と呼ぶ。

643 生きとし生ける者の生死をすべて知り、執著なく、幸せな人
覚った人──かれをわたしは(バラモン)と呼ぶ。

644 神々も天の伎楽神(ガンダルヴァ)たちも人間も
その行方を知り得ない人、煩悩の汚れを減しつくした人
──かれをわたしは(バラモン)と呼ぶ。

645 前にも、後にも、中間にも、一物をも所有せず、すべて無一物で
何ものをも執著して取りおさえることのない人
──かれをわたしは(バラモン)と呼ぶ。

646 牡牛のように雄々しく、気高く、英雄・大仙人・勝利者
欲望のない人・沐浴した者・覚った人(ブッダ)
──かれをわたしは(バラモン)と呼ぶ。

647 前世の生涯を知り、また天上と地獄とを見
生存を減し尽くしに至った人──かれをわたしは(バラモン)と呼ぶ。

648 世の中で名とし姓として付けられているものは、名称にすぎない。
(人の生まれた)その時その時に付けられて
約束の取り決めによってかりに設けられて伝えられているのである。

649 (姓名は、かりに付けられたものにすぎないということを)
知らない人々にとっては、誤った偏見が長い間ひそんでいる。
知らない人々はわれらに告げていう
『生れによってバラモンなのである』と。

650 生まれによって(バラモン)となるのではない。
生まれによって(バラモンならざる者)となるのでもない。
行為によって(バラモン)なのである。
行為によって(バラモンならざる者)なのである。

651 行為によって農夫となるのである。
行為によって職人となるのである。行為によって商人となるのである。
行為によって傭人となるのである。

652 行為によって盗賊ともなり、行為によって武士ともなるのである。
行為によって司祭者ともなり、行為によって王ともなる。

653 賢者はこのようにこの行為を、あるがままに見る。
かれらは縁起を見る者であり、行為(業)とその報いとを熟知している。

654 世の中は行為によって成り立ち、人々は行為によって成り立つ。
生きとし生ける者は業(行為)に束縛されている
--進み行く車が轄(くさび)に結ばれているように。

655 熱心な修行と清らかな行いと感官の制御と自制と
これによって<バラモン>となる。
これが最上のバラモンの境地である。

656 三つのヴェーダ(明知)を具え、心安らかに
再び世に生まれることのない人は、諸々の識者にとっては
梵天や帝釈[と見なされる]のである。
ヴァーセッタよ。このとおりであると知れ。」

 このように説かれたので、ヴァーセッタ青年と
バーラドヴァーシャ青年とは師に向って言った
「すばらしいことです。ゴータマ(ブッダ)さま。
すばらしいことです。ゴータマさま。譬えば、倒れた者を起こすように
覆われたものを開くように、方角に迷った者に道を示すように
あるいは『眼ある人々は色やかたちを見るように』といって
暗夜に灯火をかかげるように、ゴータマさまは種々のしかたで
理法を明らかにされました。
いまわたくしはゴータマさまと真理と修行僧のつどいに帰依したてまつる。
ゴータマさまはわたくしたちを、在俗信者として受けいれてください。
わたくしたちは、今日から命の続く限り帰依いたします。」

十、コーカーリヤ

 わたしが聞いたところによると
──或るとき尊き師(ブッダ)は、サーヴァッティー市のジェータ林
<孤独な人々に食を給する長者の園>におられた。
そのとき修行僧コーカーリヤは師のおられるところに赴いた。
そうして、師に挨拶して、傍らに坐した。
それから修行僧コーカーリヤは師に向っていった
「尊き師(ブッダ)よ。サーリプッタモッガラーナとは邪念があります。
悪い欲求にとらわれています。」

 そう言ったので、師(ブッダ)は修行僧コーカーリヤに告げて言われ
「コーカーリヤよ、まあそういうな。コーカーリヤよ、まあそういうな。
サーリプッタモッガラーナとを信じなさい。
サーリプッタモッガラーナとは温良な性の人たちだ。」

 修行僧コーカーリヤは再び師にいった
「尊き師よ。わたくしは師を信じてお頼りしていますが
しかしサーリプッタモッガラーナとは邪念があります。
悪い欲求にとらわれています。」

 師は再び修行僧コーカーリヤに告げて言われた
「コーカーリヤよ、まあそういうな。
コーカーリヤよ、サーリプッタモッガラーナとを信じなさい。
サーリプッタモッガラーナとは温良な性の人たちだ。」

 修行僧コーカーリヤは三たび師にいった
「尊き師よ。わたくしは師を信じてお頼りしていますが
しかしサーリプッタモッガラーナとは邪念があります、
悪い欲求にとらわれています。」

 師は三たび修行僧コーカーリヤに告げて言われた
「コーカーリヤよ、まあそういうな。
コーカーリヤよ、サーリプッタモッガラーナとを信じなさい。
サーリプッタモッガラーナとは温良な性の人たちだ。」

 そこで修行僧コーカーリヤは座から起って、師に挨拶して
右まわりをして立ち去った。
修行僧コーカーリヤが立ち去ってからまもなく
かれの全身に芥子粒ほどの腫物が出てきた。
(初めは)芥子粒ほどであったものが、(次第に)小豆ほどになった。
小豆ほどであったものが、大豆ほどになった。
大豆ほどであったものが、棗の核ほどになった。
棗の核ほどあったものが、棗の果実ほどになった。
棗の果実ほどあったものが余甘子ほどになった。
余甘子ほどであったものが、未熟な木爪の果実ほどになった。
未熟な木爪の果実ほどであっものが、熟した木爪ほどになった。
熟した木爪ほどになったものが破裂し、膿と血とが迸り出た。
そこで修行僧コーカーリヤはその病苦のために死去した。
修行僧コーカーリヤは、サーリプッタモッガラーナとに対して
敵意をいだいていたので、死んでから紅蓮地獄に生まれた。

 そのときサハー(老婆)世界の主・梵天は、夜半を過ぎた頃に
麗しい容色を示して、ジェータ林を隈なく照らして
師のおられるところに赴いた。そうして師に敬礼して傍らに立った。
そこでサハー世界の王である梵天は師に告げていった。
尊いお方さま。修行僧コーカーリヤは死去しました。
修行僧コーカーリヤは、サーリプッタモッガラーナとに対して
敵意をいだいていたので、死んでから紅蓮地獄に生まれました。」
サハー世界の主・梵天はこのように言った。
このように言ってから、師に敬礼し、右まわりをして
その場で消え失せた。

 さて、その夜が明けてから、師は、諸々の修行僧に告げて言われた
「諸々の修行僧らよ。昨夜サハー世界の主である梵天
夜半を過ぎた頃に、麗しい容色を示して、ジェータ林を隈なく照らして
わたくしのいるところに来た。それからわたくしに敬礼して傍らに立った。
さうしてサハー世界の主である梵天は、わたくしに告げていった。
尊いお方さま。修行僧コーカーリヤは死去しました。
修行僧コーカーリヤは、サーリプッタモッガラーナとに対して
敵意をいだいていたので、死んでから紅蓮地獄に生まれました』と。
サハー世界の主である梵天はこのように言った。
そうして、師を敬礼し、右まわりして、その場で消え失せた。」

 このように説かれたときに、一人の修行僧が師に告げていった
尊いお方さま。紅蓮地獄における寿命の長さは、どれだけなのですか?」

 「修行僧よ。紅蓮地獄における寿命は実に長い。
それを、幾年であるとか、幾百年であるとか、幾千年であるとか
幾十万年であるとか、数えることはむずかしい。」

 「尊いお方さま。しかし譬喩を以て説明することがでまるでしょう。」

 「修行僧よ。それはできるのです」といって、師は言われた
「たとえば、コーサラ国の枡目ではかつて二十カーリカの胡麻の積荷
(一車輌分)があって、それを取り出すとしょう
ついで一人の人が百年を過ぎるごとに胡麻を一粒ずつ取り出すとしよう。
その方法によって、コーサラ国の枡目ではかって
二十カーリカの胡麻の積荷(一車輌分)が速やかに尽きたとしても
一つのアッブタ地獄はまだ尽きるに至らない。
二十のアッブダ地獄は一つのニラッブダ地獄[の時期]に等しい。
二十のニラッブダ地獄は一つのアババ地獄[の時期]に等しい。
二十のアババ地獄は一つのアハハ地獄[の時期]に等しい。
二十のアハハ地獄は一つのアタタ地獄[の時期]に等しい。
二十のアタタ地獄は一つの黄蓮地獄[の時期]に等しい。
二十の黄蓮地獄は一つの白睡蓮地獄[の時期]に等しい。
二十の白睡地獄は一つの青蓮地獄[の時期]に等しい。
二十の青蓮地獄は一つの白蓮地獄[の時期]に等しい。
二十の紅蓮地獄[の時期]に等しい。ところで修行僧コーカーリヤは
サーリプッタおよびモッガラーナに対して敵意をいだいていたので
紅蓮地獄に生まれたのである。」

 師はこのように言われた。幸せな人である師は
このことを説いてから、さらに次のように言われた。──

657 人が生まれたときには、実に口の中には斧が生じている。
愚者は悪口を言って、その斧によって自分を斬り割くのである。

658 毀(こぼ)るべき人を誉め、また誉むべき人を毀る者
──かれは口によって禍をかさね、その禍のゆえに
福楽を受けることができない。

659 賭博で財を失う人は、たとい自身を含めて一切を失うとも
その不運はわずかなものである。しかし立派な聖者に対して
悪意をいだく人の受ける不運は、まことに重いのである。

660 悪口を言いまた悪意を起して聖者をそしる者は
十万と三十六のニラップダの[巨大な年数のあいだ]
また五つのアッブダの[巨大な年数のあいだ]地獄に赴く。

661 嘘を言う人は地獄に墜ちる。また実際にしておきながら
わたしはしませんでした」と言う人もまた同じ。
両者とも行為の卑劣な人々であり
死後にはあの世で同じような運命を受ける(地獄に墜ちる)。

662 害心なく清らかで罪汚れのない人を憎むかの愚者には
必ず悪(い報い)がもどってくる。
風に逆らって微細な塵を撒き散らすようなものである。

663 種々なる貪欲に耽る者は、ことばで他人をそしる
──かれ自身は、信仰心なく、ものおしみして、不親切で、けちで
やたらにかげ口を言うのだが。

664 口穢く、不実で、卑しい者よ。
生きものを殺し、邪悪で、悪行をなす者よ。
不劣を極め、不吉な、でき損いよ。
この世であまりおしゃべりするな。お前は地獄に落ちる者だぞ。

665 お前は塵を播いて不利を招き、罪をつくりながら
諸々の善人を非難し、また多くの悪事をはたらいて、
長いあいだ深い坑(地獄)に陥る。

666 けだし何者の業も滅びることはない。
それは必ずもどってきて、(業をつくった)主がそれを受ける。
愚者は罪を犯して、来世にあってはその身に苦しみを受ける。

667 (地獄に墜ちた者は)、鉄の串を突きさされるところに至り
鋭い刃のある鉄の槍に近づく。
さてまた灼熱した鉄丸のような食物を食わされるが
それは、(昔つくった業に)ふさわしい当然なことである。

668 (地獄の獄卒どもは「捕えよ」「打て」などといって)
誰もやさしいことばをかれることなく
(温顔をもって)向ってくることなく、頼りになってくれない。
(地獄に墜ちた者どもは)、敷き拡げられた炭火の上に臥し
あまねく燃え盛る火炎の中に入る。

669 またそこでは(地獄の獄卒どもは)鉄の網をもって
(地獄に墜ちた者どもを)からめとり、鉄槌をもって打つ。
さらに真の暗黒である闇に至るが
その闇はあたかも霧のようにひろがっている。

670 また次に(地獄に堕ちた者どもは)
火炎があまねく燃え盛っている鋼製の釜にはいる。
火の燃え盛るそれらの釜の中で永いあいだ煮られて、浮き沈みする。

671 また膿や血のまじった湯釜があり、罪を犯した人はその中で煮られる。
かれがその釜の中でどちらの方角へ向って横たわろうとも
(膿と血とに)触れて汚される。

672 また蛆虫の棲む水釜があり、罪を犯した人はその中で煮られる。
出ようにも、つかむべき縁がない。
その釜の上部は内側に彎曲していて、まわりが全部一様だからである。

673 また鋭い剣の葉のついた林があり
(地獄に墜ちた者どもが)その中に入ると、手足を切断される。
(地獄の獄卒どもは)鉤を引っかけて舌をとらえ
引っ張りまわし、引っ張り廻しては叩きつける。

674 また次に(地獄に墜ちた者どもは)、超え難いヴェータラニー河に至る。
その河の流れは鋭利な剃刀の刃である。
愚かな輩は、悪い事をして罪を犯しては、そこに陥る。

675 そこには黒犬や斑犬や黒烏の群や野狐がいて
泣きさけぶかれらを貪り食うて飽くことがない。
また鷹や黒色ならぬ烏どもまでが啄む。

676 罪を犯した人が身に受けるこの地獄の生存は、実に悲惨である。
だから人は、この世において余生のあるうちになすべきことをなして
忽せにしてはならない。

677 紅蓮地獄に運び去られた者(の寿命の年数)は
荷車につんだ胡麻の数ほどある、と諸々の智者は計算した。
すなわちそれは五千兆年とさらに一千万の千二百倍の年である。

678 ここに説かれた地獄の苦しみがどれほど永く続こうとも
その間は地獄にとどまらなねばならない。
それ故に、ひとは清く、温良で、立派な美徳をめざして
常にことばとこころをつつしむべきである

十一、ナーラカ

 [ 序 ]

679 よろこび楽しんでいて清らかな衣をまとう三十の神々の群と
帝釈天とが、恭しく衣をとって極めて讃嘆しているのを
アシタ仙は日中の休息のときに見た。

680 こころ喜び踊りあがっている神々を見て
ここに仙人は恭々しくこのことを問うた、

「神々の群が極めて満悦しているのは何故ですか?
どうしたわけでかれらは衣をとってそれを振り廻しているのですか?

681 たとえ阿修羅との戦いがあって神々が勝ち阿修羅が敗れたときにも
そのように身の毛の振るい立つぼど喜ぶことはありませんでした。
どんな稀なできごとを見て神々は喜んでいるのですか?

682 かれは叫び、歌い、楽器を奏で、手を打ち、踊っています。
須弥山の頂に住まわれるあなたがたに、わたくしはおたずねします。
尊き方々よ、わたくしの疑いを速かに除いてください。」

683 (神々は答えて言った)
「無比のみごとな宝であるかのボーディサッタ(菩薩、未来の仏)は
もろびとの利益安楽のために人間世界に生まれたもうたのです
──シャカ族の村に、ルンビニーの聚落に。
だからわれらは嬉しくなって、非常に喜んでいるのです。

684 生きとし生ける者の最上者、最高の人、牡牛のような人
生きとし生けるもののうちの最高の人(ブッダ)は
ゆがて<仙人(のあつまる所)>という名の林で(法)輪を回転するであろう。──猛き獅子が百獣にうち勝って吼えるように。」

685 仙人は(神々の)その声を聞いて急いで(人間世界に)降りてきた。
そのときスッドーダナ王の宮殿に近づいて、そこに坐して
シャカ族の人々に次のようにいった、

 「王子はどこにいますか。わたくしもまた会いたい。」

686 そこで諸々のシャカ族の人々は、その児を
アシタという(仙人)に見せた
──溶炉で巧みな金工が鍛えた黄金のように
きらめき幸福に光り輝く尊い児を。

687 火炎のように光り輝き、空行く星王(月)のように清らかで
雲を離れて照る秋の太陽のように輝く児を見て、歓喜を生じ
昴まく喜びでわくわくした。

688 神々は、多くの骨あり千の円輪ある傘蓋を空中にかざした。
また黄金の柄のついた払子で[身体を]上下に扇いだ。
 しかし払子や傘蓋を手にとっている者どもは見えなかった。

689 カンハシリ(アシタ)という結髪の仙人は
こころ喜び、嬉しくなって、その児を抱きかかえた
──その児は、頭の上に白い傘をかざされて白色がかった毛布の中にいて
黄金の飾りのようであった。

690 相好と呪文(ヴェーダ)に通曉しているかれは
シャカ族の牡牛(のような立派な児)を抱きとって、(特相を)検べたが
心に歓喜して声を挙げた
──「これは無上の方です、人間のうちで最上の人です。」

691 ときに仙人は自分の行く末を憶うて、ふさぎこみ、涙を流した。
仙人が泣くのを見て、シャカ族の人々は言った
──「われらの王子に障りがあるのでしょうか?」

692 シャカ族の人々が憂えているのを見て、仙人は言った──
「わたくしは、王子に不吉の相があるのを
思いつづけているのではありません。またかれに障りはないでしょう。
この方は凡庸ではありません。よく注意してあげてください。

693 この王子は最高のさとりに達するでしょう。
この人は最上の清浄を見、多くの人々のためをはかり、あわれむが故に
法輪をまわすでしょう。この方の清らかな行いはひろく弘まるでしょう。

694 ところが、この世におけるわたくしの余命はいくばくもありません。
(この方がさとりを開かれるまえに)
中途でわたくしは死んでしまうでしょう。
わたくしは比なき力ある人の教えを聞かないでしょう。
だから、わたくしは、悩み、悲嘆し、苦しんでいるのです。」

695 かの清らかな修行僧(アシタ仙人)は
シャカ族の人々に大きな喜びを起させて、宮廷から去っていった。
かれは自分の甥(ナーラカ)をあわれんで
比なき力ある人の教えに従うようにすすめた。──

696 「もしもお前が後に『目ざめた人あり、さとりを開いて
真理の道を歩む』という声を聞くならば
そのときそこへ行ってかれの教えをたずね
その師のもとで清らかな行いを行え。」

697 その聖者は、人のためをはかる心あり
未来における最上の清らかな境地を予見していた。
その聖者に教えられて、かねて諸々の善根を積んでいたナーラカは
勝利者(ブッダ)を待望しつつ、みずからの感官をつつしみ
まもって暮らした。

698 <すぐれた勝利者が法輪をまわしたもう>との噂を聞き
アシタという(仙人)の教えのとおりになったときに、出かけていって
最上の人である仙人(ブッダ)に会って信仰の心を起し
いみじき聖者に最上の聖者の境地をたずねた。

 序文の詩句は終った。

699 [ナーラカは尊師にいった]
「アシタの告げたこのことばはそのとおりであるということを
了解しました。故に、ゴータマよ
一切の道理の通達者(ブッダ)であるあなたにおたずねします。

700 わたくしは出家の身となり、托鉢の行を実践しようと
願っているのですが、おたずねします。聖者よ
聖者の境地、最上の境地を説いてください」

701 師(ブッダ)はいわれた
「わたくしはあなたに聖者の境地を教えてあげよう。
これは行いがたく、成就し難いものである。
さあ、それをあなたに説いてあげるようしっかりとして、堅固であれ。

702 村にあっては、罵られても、敬礼されても、平然とした態度で臨め。
(罵られても)こころに怒らないように注意し
(敬礼されても)冷静に、高ぶらずにふるまえ。

703 たとい園林のうちにあっても、火炎の燃え立つように
種々のものが現れ出てくる。
婦女は聖者を誘惑する。婦女をしてかれを誘惑させるな。

704 婬欲のことがらを離れ、さまざまの愛欲をすてて、弱いものでも
強いものでも、諸々の生きものに対して敵対することなく
愛著することもない。

705 『かれもわたしと同様であり、わたしもかれと同様である』と思って
わがみに引きくらべて、(生きるものを)殺してはならなぬ。
また他人をして殺させてはならない。

706 凡夫は欲望と貪りと執著しているが
眼ある人はそれを捨てて道を歩め。この(世の)地獄を超えよ。

707 腹をへらして、食物を節し、小欲であって、貪ることなかれ。
かれは貪り食う欲望に厭きて、無欲であり、安らぎに帰している。

708 その聖者は托鉢にまわり歩いてから、林のほとりにおもむき
樹の根もとにとどまって座につくべきである。

709 かれは思慮深く、瞑想に専念し、林のほとりで楽しみ
樹の根もとで瞑想し、大いにみずから満足すべきである。

710 ついで夜が明けたならば、村里のほとりに去るべきである。
(信徒から)招待を受けても、また村から食物をもらってきても
決して喜んではならない。

711 聖者は、村に行ったならば、家々を荒々しく
ガサツに廻ってはならない。話をするな。
わざわざ策して食を求めることばを発してはならない。

712 『(施しの食べ物を)得たのは善かった』
『得なかったのもまた善かった』と思って
全き人はいずれの場合にも平然として還ってくる。
あたかも(果実をもとめて)樹のもとに赴いた人が
(果実を得ても得なくても、平然として)帰ってくるようなものである。

713 かれは鉢を手にして歩き廻り
唖者ではないのに唖者と思われるようにするためだ。
施物が少なかったらとて軽んじてはならぬ。
施してくれる人を侮ってはならない。

714 道の人(ブッダ)は高く或いは低い種々の道を説き明かしたもうた。
重ねて彼岸に至ることはないが、一度で彼岸に至ることもない。

715 (輪廻の)流れを断ち切った修行僧には執著が存在しない。
なすべき(善)となすべからざる(悪)とを捨て去っていて
かれは煩悶が存在はない。」

716 師がいわれた
「あなたに聖者の道を説こう
──(食をとるには)剃刀の刃の譬えのように用心せよ。
舌で上口蓋を抑え、腹についてはみずから食を節すべし。

717 心が沈んでしまってはいけない。
またやたらに多くのことを考えてはいけない。
腥い臭気なく、こだわることなく、清らかな行いを究極の理想とせよ。

718 独り坐することと道の人に奉仕することを学べ。
聖者の道は独り居ることであると説かれている。
独り居てこそ楽しめるであろう。

719 そうすればかれは十方に光輝くであろう。
欲望をすてて瞑想している諸々の賢者の名声を聞いたならば
わが教えを聞く者はますます恥を知り、信仰を起すべきである。

720 そのことを深い淵の河水と浅瀬の河水とについて知れ。
河低の浅い小川の水は音を立てて流れるが
大河の水は音を立てないで静かに流れる。

721 欠けている足りないものは音を立てるが
満ち足りたものは全く静かである。
愚者は半ば水を盛った水瓶のようであり
賢者は水の満ちた湖のようである。

722 道の人が理法にかない意義あることを多く語るのは
みずから知って教えを説くのである。

723 しかしみずから知って己れを制し
みずから知っているのに多くのことを語らないならば
かれは聖者として聖者の行にかなう。
かれは聖者として聖者の行を体得した。」


十二、二種の観察