常に死を想う

◯100%の死

 自分が死ぬという事
100%確実に死ぬという事を
わきまえた時から
真の修行が始まる。
 人は自分の死を認めなければ
現実を観る事が出来ず
いつまでも観念の遊戯を
繰り返すだけだ。
 死に行く人間が
それをわきまえず
何を語り何を取り繕うとも
それは現実から離れている
夢幻のようなもの。

 ブッダも四門を出て
老病死に苦しむ人間の姿を知り
世を捨てる決意をされたように
避ける事の出来ない現実を知って
はじめて人は、
悟りを得ようと正しく想う。

 人間には老病死という限界がある。
それが正しく現実の姿。
 どれほど高尚な事を語ろうと
人はこれらの現実に屈服し
やがて屍を晒す。
 それは全ての生き物
動物や昆虫などとも変わりは無い。
 老病死がある限り人間も
無力な生物の一つに過ぎない。

◯死の法則を知り、乗り越える

死は誰もが免れず
平等に来るもの。
 自分は死なないなどと
思っていれば
死ぬ時に後悔する。
 又、死が怖いから或いは
わからないからと
考えないようにしていれば
それもまた
後悔することになる。

 それは例えば
目の前に車が暴走してきた時に
臆病な者が眼をつぶって
止まってしまうのと同じ。
 そのようにすれば
恐れからは逃避できるが
目の前の危険からは
逃れられない。
 本当に危険から逃れるためには
それがどのように動いているのかを
眼を見開いて
見極めなければならない。
 
 死もまた同じように
それ自体をよく観察して
見極めれば
超えることも
利用することも可能。
 それが死の法則を知り
乗り超えること。

 それでは死の法則とは
どのような性質のものなのか
わかり易く書く。

1 死は誰にでも
  平等にやってくる
2 死に拠って
  今まで自分がしてきたことは
  中断される
3 誰もが死に拠って
  金や名声や権力などを
  捨てなければならない
4 死に拠って
  全ての人と物理的に
  別れなければならならい

 死とは
 このような性質のある法則といえる。
 1番目の誰にでもやってくるというのは
 誰でもわかる。  
 事故とか病で死は
 明日にもやってくるかもしれない。
 そうでなくとも
 寿命で死ぬこともあるかもしれない。
 そのように確実に来ることを知って
 覚悟しなければならない。

 2番目の死に拠って
 仕事が中断されるというのも理性ではわかる。
 しかし感情ではわからない者達もいるだろう。
 年をとっても仕事にしがみつく者は多く居る。
 いつまで自分が元気に
 仕事が出来るという考えでいると
 死後に遺族が困ったりする。
 そのような者は
 死から逃避していたといえる。

 3番目の誰もが死に拠って
 全てを捨てなければならないということは
 誰もが理解出来る筈であるが
 実際は大多数の者がわかっていない。
 まるで金や権力や名声が
 永遠に保持できるかのように
 多くの者が貪欲に求めている。
 そのために法律を破り
 他人を苦しめることさえ
 平気でしたりしている。
 いずれは全て
 捨ててしまうもののために
 そのような行いをするのは
 実に愚かなこと。
 そのような者達は
 自ら苦しみを
 呼び寄せているといえる。

 4番目の誰もが物理的に
 全ての人と別れなければならないというのも
 感情的には理解し難いだろう。
 愛する家族や友人達等は
 感情的には永遠に
 変らないように見える。
 しかし、いずれは
 別れなければならない。
 他人に執着すれば
 いずれは苦がやってくる。

 実にこのように死の法則は
 人を苦しめるためのものに見える。
 しかし他の法則と同じように
 死の法則も叡智によって
 乗り越える方法がある。
 それが悟りを得る法だ。
 悟りを得る法を実践すれば
 死も乗り越えられる。

◯不死の境地

 死とは肉体の働きが停止すること。
それに伴って肉体に拠っていた
全ての能力もなくなる。
思考とか感情とか感覚とか
認識などもなくなる。
 それらが自分であると
思っていたならば
死は自分の消滅であり
絶望しかない現象だ。

 しかし肉体と
その能力だけが自分であり
その他に自分は無いという
観念に囚われていなければ
死は消滅ではなく絶望でもない。
 そのように自分という
観念を正しく捉える事で
死を超越する。

 実際に肉体が自分であり
自分は肉体しかないという
観念は謬見でしかない。
 人の肉体は呼吸や食事や
飲み物を通して物理的にも
全てと繋がっている。
 それが個体であり個我であり
他のものと分別された自分である
ということはありえない。

 例えば呼吸ならば
鼻から入った空気が
いきなり自分になり
鼻から出て行けば
自分ではなくなる
ということもない。
 自分とはそのように
はっきりした境界を持たず
あいまいな観念を
習慣によって認識しているだけだ。
 自分とはどのような存在であり
どこからどこまでが自分であり
何があれば自分と呼べるのかと
知らなければ
そのあいまいな観念に
囚われ続けることになる。

 瞑想と観察は
そのあいまいな観念を明確にして
それが自分ではないことに
気付く方法だ。
 自分というものを
明確に観るように努めることで
それが観念であることに気付く。
 自分とは主体ではなく
実際にあるものではなく
習慣によって形成された
観念であると。
 境界さえも不明確な観念が
どうして全てのものごとを
認識する主体であり
自分であるという事がありえるか。

 そのようにして
自分という観念から
離れたならば
もはや死もあり得ない。
 自分が無いのに
自分の消滅はあり得ない。

◯悟りとは死を超える道

人はどのようにして
死を克服するのかといえば
それは誤まった認識を
排除することで可能になる。
 誤まった認識とは
記憶による認識。
 その認識に拠って
自分という謬見も起こる。

 自分という個我がある
他からはなれた実体としての
個体がある
独立した主体がある
というのが謬見。
 その謬見から老病死や
他の一切の苦も起こる。
 
 この謬見と認識の誤りから
抜けることが出来れば
死を克服できる。
 それらのために
この肉体だけが自分であり
自分の全てであると
誤認していたから死もあった。
 それらが無ければ
もはや死も無い。

 例えば大樹が自分を
末端の木の葉の一枚と誤認すれば
それが落ちる時に
自分全体がなくなる死と
死の恐れもあると誤認する。
 大樹の全てが
自分であると知れば
一枚の木の葉が落ちても
樹の自然な働きの
一つであると理解して
自分が無くなる死も
死の恐れも無くなる。

 そのように人も
肉体が自分であり
自分の全てであると
誤認していれば
死があるが
全てが自分であるという
正しい認識を感得すれば
死も無くなる。