シュリ・バガヴァン

目覚めてしまえば
すべきことは何もない。
ただ目覚めているだけである。 

 

目覚めは
目的のための手段ではない。
目覚めは
それ自体が目的である。

 

目覚めた人は
存在し行為をしているという
感覚はない。

 

目覚めた人は、
常に不動のままであり
行動は自動的に発生する。

 

覚醒している人は、
自然に完全な行為が
起きるまでは
不動のまま、とどまる。

 

 

目覚めた人は
何もしない。
しかし
やり残すこともない。

すべてはいつでも
目覚めたものの周りで
目覚めたものを通して
起きているからである。

 

目覚めた人は
心にビジョンまたは
ゴールを抱くことがない。
ただ行為があるだけである。

 

目覚めた人は
選択の余地や
希望がないゆえに
自由を体験する。

 

 

目覚めた人は
意思を持たず
幻想を抱くこともない。
目覚めた人は
ただ現実にとどまっている。

 

目覚めた人は
何も達成することもない。
達成することは
何もないからである。

 

目覚めた人は
何も知ることもない。
知ることは
何もないからである。

 

 

目覚めた人は
物事について知らず
あるいは理解していないが
見ている。

 

目覚めた人は
物事をあるがままに見
それらをコントロールしたり
型にはめようとはしない。

 

目覚めた人は
多数のものを
ひとつとして見る。

 

目覚めた人は
あらゆる見解や概念に
とらわれることがなく
あるがままのものと
ひとつになっている。

 

 

目覚めた人は
学ぶべきものは何もない
ということを知っている。
必要なことは、
ただ学んだものを
捨てるだけである。

 

目覚めた人は
絶えず学んだことを捨てている。
それゆえいつも
重荷から解放されていて
自由の中に生きている。

 

目覚めた人は
自分を知っている。
ゆえに賢明である。

 

目覚めた人は
自分とのあいだに
葛藤がないので
真の力を備えている。

 

 

目覚めた人は
あらゆるものに対して
心を開き
あらゆるものが
適所に置かれている。

 

目覚めた人は
他人を
説得しようとはしない。

 

目覚めた人は
謙虚であり
あえて謙虚であろうと
努力することはない。

 

目覚めた人は
空っぽであり
ゆえに有能である。

 

目覚めた人は
しようとする必要もなく
自然に生きとし生けるものを
支えている。

 

 

目覚めた人は
世界が虚空から
現れるのを見る。
それゆえ世界を
あるがままに
受け入れる。

 

目覚めた人は
自分を受け入れており
世界も目覚めた人を
受け入れている。

 

目覚めた人は
世界をあるがままに
受け入れるので
本来の自己に
確立されている。

 

目覚めた人にとって
世界とは自分自身である。
したがって、世界を
自分自身のように愛し
いたわる。

 

 

目覚めた人にとって
すべてはそのままで
完璧である。

 

目覚めた人は
世界を変えようとはしない。
目覚めた人にとって
世界は完全であり
神聖なものである。

 

目覚めた人は
不完全であること自体を
完全であると見
それゆえに、
あるがままの中に喜びを感じる。

 

 

目覚めた人の喜びには
理由がない。
よって、いかなるものも
その喜びに
影響を及ぼすことはない。

 

目覚めた人は
起こるべきことは起き
そうでないことは起きず
宇宙とは永遠に
コントロールできないもの
であることを知っている。

 

目覚めた人は
人生という神秘を生きる。
目覚めた人には
確たる計画もなければ
目標もない。

 

 

目覚めた人は
何事にも執着しないが
ゆえにすべてと一つである。

 

目覚めた人は
宇宙誕生以前から
そこにあったものと
一つになっている。

 

それは永遠に存在し
生まれることも
死ぬこともなく
始まりも終わりもなく
決して変わらず
孤高、空、無限
至福に満ちた
永遠の「私」である。

 

 

目覚めた人は
ありのままでいる。
目覚めた人は
常に体験している。

 

目覚めた人の体験には
意識以外に何もない。
すべては
意識だからである。

 

 

目覚めた人は
恐れがないことを知っている。
目覚めた人は
死ぬ覚悟ができている。

 

目覚めた人は
死を受け入れている。
目覚めた人には
死が存在しないからである。