バーヒヤ経

バーヒヤ経

自我のある人間は
なにものかを認識する時、
自分との関連によって認識する。
知覚したものごとに
自分との関連による
意味を与えている。

例えば何かを見れば
自分のものであるとか、
自分のものではないとか、
自分の好きなものとか、
自分の嫌いなものとか
認識している。
 
修行によって自我が薄れてくれば、
自分との関連も薄くなり、
すべてを意味の無いものと
見られる。

昔、バーヒヤという
外道の行者がいた。
修行に行き詰ったのか
お釈迦様に教えを請いに行くと、
お釈迦様は教えた。
バーヒヤさん、このように
あなたは学ぶべきです。

「見られたものにおいては、
見られたもののみがあります。」
「聞かれたものにおいては、
聞かれたもののみがあります。」
「思われたものにおいては、
思われたもののみがあります。」
「識られたものにおいては、
識られたもののみがあります。」

「バーヒヤさん、それですから
あなたは、それとともにいないのです。
「それとともにいないことから、
あなたは、そこにいないのです。」
「そこにいないことから、
あなたは、まさしく
この世になく、あの世になく
両者の中間において
存在しないのです。」
「これこそは、
苦しみのおわりです。」

この教えによって
バーヒヤは即座に悟りを得た。
バーヒヤも外道ではあるが、
それなりに集中の修行をしていたのだろう。
見たものに意味が投射されない
境地であった故に、
自我もそこに無いことに気付けた。
 
自我が無い時には
何を見ても聞いても
そこに意味は投射されない。
見たものは見ただけのものとなり、
聞いたものはきいただけのものとなる。
あらゆる意味と
好悪と是非が消えうせた、
知覚されたままの姿に認識される。

その時
過去の経験の蓄積がある自分
現在知覚している自分
これからも将来のある自分
という観念は存在しない。
それがこの世にも
あの世にも中間にも
自分というものが無いということ。

この言葉によって
バーヒヤも
自分が無いことに気付けた。
何も無いところに
観念による自分を
作り上げていたと知れた。
それが観照
そして厭離が出来た。

見たものが見ただけのものとして知覚されたり

聞いたものが聞いただけのものと知覚される

ということは経験が無い者には

理解しがたい事かもしれない。

それでも真摯に修行していれば

いずれは経験することもあるだろう。

その時は自我を厭離する

よい機会であると知って観察すると善い。

どこにも自分というものが無いことが

明らかに観察される。

そして観照も起こる。