黄金の華の秘密

黄金の華の秘密 – タオとOsho

17世紀に道家が遺した太乙金華宗旨について和尚が語る(1983.1.1)

黄金の華の秘密
The Secret of Secrets
Talks on The Secret of the Golden Flower

Taoist Teachings on Life and Existence

六月の白い雪

六月に突然、白い雪が舞う。
六月は一年のちょうど真ん中だ。
それはあらゆるものの真ん中を意味している。
あらゆるものの真ん中にあることができて
けっして極端に偏らなければ
最初に必要とされる条件を満たしている。
真ん中にありなさい――
これは探求者にとって
実存的な探求の途上にある者にとって
計り知れない価値がある。

いつも真ん中
「中庸」を覚えておきなさい。
食べ過ぎてはいけないし、
完全に食を断ってもいけない
――これでもなくあれでもない。
ものに執着し過ぎてもいけないし
ものを捨ててもいけない。
人々とともに暮らしながら
馴れ合い過ぎないこと。
馴れ合い過ぎると、まったく少しも
独りでいることができなくなる。

また独りぼっちで
暮らしはじめてはいけない。
孤独に病みつきになり
人を避けるようではいけない。
世間にいながら、世間を
自分のなかに入らせてはいけない。
世間から逃げだす必要はない。
けっして極端に走らないこと――
これは覚えておくべき
最も基本的なことがらだ。

なぜなら心マインドはつねに
一方の極端から

もう一方の極端へと動くからだ。
心は極端を通して生きているものであり
真ん中では死んでしまう
――これが奥義だ。

すべて与えられる

<存在>が
あなたの面倒を見てくれている。
それは何らかの理由があって
あなたに与えられている。
それは偶然ではない。
偶然に起こることなど何もない。
何であれあなたに必要なものが
すべて与えられる。

ヒマラヤにいることが必要であったなら
あなたはヒマラヤにいたことだろう。
必要に応じて、あなたが
ヒマラヤに出かけてゆくか
さもなければヒマラヤがあなたのもとへ
やって来るかそのどちらかだ。

だから弟子に
用意ができたときには師が現れる。
あなたの内なる静けさが
整ったときには、神がやって来る。
そして何であれ
道の途上で必要なものは
いつでもすべて与えられる。

<存在>は面倒を見てくれる。
母親のように世話をしてくれる。
だから心配することはない。

そよ風が吹く

探求者であるなら
あなたは絶えず
学びつづけなければならない。
生きることは学ぶことだ。
学ぶことはけっして終わらない。
死の瞬間においてすら
探求者は学びつづける。
彼は死を学ぶ。

彼はいつでも変わる用意ができている。
水は変化する要素を、永遠の変化を
流動的な現象を表している。
いつでも変化でき、過去を忘れ
過去を許すことができ
瞬間とともに進んでゆく用意の
ある者たちこそが真の人間だ。
なぜなら彼らは冒険家だからだ。
彼らは生の美を、生の祝福を知っている。

そして生はその神秘をこのような人々に
このような人々にだけ明らかにしてくれる
――なぜなら彼らはそれに値するからだ
みずからの手でそれを稼ぎ取ったからだ。
賭けることで、彼らはそれを稼ぎ取った。
彼らには勇気がある。

水中にそよ風が吹く。
もしあなたが水のような現象になり
変化し、絶えず移り変わり、動き、流れ
けっして過去や古いものにしがみつかず
いつも新しいものを探し求め、
つねに新しいものを楽しんでいると……
そよ風が吹いてくる。
あなたは恩寵に包まれる。
あなたの実存は至福に包まれる。
そうなったら、あなたの内側で
はじめて聖なるものが踊りだす……
そよ風が吹くとはそのことだ。

神はとてもやさしい。
神はけっしてあなたの扉を叩かない。
神の足音はけっして聞こえない。
訪れるときには
神は音を立てずに
ひっそりとやって来る。

あなたが水のように
なっていないかぎり、
神のそよ風があなたの上に
吹いてくることはない。

まず流動的になりなさい。
流動的でありつづけること
――これはサニヤシンに対する
私のメッセージでもある。

天の動き

人が動きを起こして
その動きを忘れるようなら
それは本来の動きではない。
それゆえに
外界の事物の刺激を受けて動くのは
本性の欲望であり
外界の事物の刺激を受けずに動くのは
天の動きであると言われる。
いいかね、天の動きに身をゆだね
神があなたを動かすままにさせることだ。
<全一なるもの>に明け渡しなさい。

そうでないと
あなたは状況に反応しつづけ
状況はあなたとその意識に
作用しつづけるだけで
あなた自身には何の変化も起こらない。

相手の男や女を変えることはできるし
仕事を変えることはできるし
家を変えることはできる。
ものをどんどん変えつづけることはできるが
本当には何ひとつ変わっていない。

<全体>があなたをわしづかみにし
あなたのハートがもはや
外界の事物に動かされなくなり
実存の内奥の中核
――それを「神」「天」「タオ」と呼んでもいい
――によって動かされるようにならないかぎり……。

あなたがそれを動かすのではなく
あなたが<全一なるもの>の手にする
ただの道具となっているとき
それこそまさに
「汝の王国は来たり、汝のわざはなされた」
という言葉で
エスが言わんとしていることだ。
エスはそのような言い方をした。
同じ真理をユダヤ流の表現で言い表した。
天の動きに身をゆだねよ
――これは中国の言い表し方だ。

正しい瞬間

清らかであれば
静謐せいひつであれば
あなたは天国にたどり着くと
言われているが
真相はまったくその逆だ。

清らかであれば
静謐せいひつであれば
天国があなたのもとにやって来る。
人はけっしてどこへも行かない。
人はつねにここにいる。
だが、ひとたび内側が
光で満たされたなら
外側の世界すべてが変容を遂げる。

タオはゆっくりと成長してゆく。
タオは<存在>と歩調を合わせることを信じ
けっして自分の流儀を押し付けたり
川を押したりせず
ものごとをひとりでに起こらせてゆく。

そしてタオは言う。
永遠の時間があるのだから
あわてる必要はない。
適切な時に種子を蒔いて、待てばいい。
そうすれば春がやって来る。
春はいつでもやって来る。
そして春が来れば、花が咲く。

自然と調和を保ち
自然にみずからの道をとらせなさい
―それはいつ起こってもかまわない
それはいつも時を逸することがない
起こるのがいつであってもだ。
たとえ長い年月がかかるとしても
それで遅れたことにはならない。
それはけっして遅れない。
それはつねに正しい瞬間に起こる。

どこにいようと

成果は求めずとも
おのずからやって来る。
もっとも重要なのは
成果を求めている者は
すでに分裂しているということだ。
そうなったらあなたの
こころハートは働いていない。
すでに成果に目を奪われている。

分裂していたら
成果をあげることはできない。
成果をあげられるのは
ことの成り行きや結果を気にせず
旅そのものをこのうえもなく楽しみ
目的地のことなどかまわずにいられる
分裂していないこころだけだ。
ゴールのことなどまったく
気にかけない者だけがたどり着く
―彼らの精神マインドは少しも分裂しておらず
旅の一瞬一瞬が、旅の一歩一歩が
ゴールになるからだ。
どこにいようと
自分がいるところがゴールになる。

成果のことなどまったく気にかけない
霊的スピリチュアルな
道の上にいる人々が成果をあげる。
成果を気にかけていたら
成果をあげることはできない。
思考が未来のどこかにあって
あなたは現在で働いていないからだ。
そして、仕事が現在において
全一に為されてはじめて
成果をあげることができる。

この瞬間が次の瞬間を生んでゆく。
この瞬間が全一に生きられたなら、
次の瞬間は必ずより深い全一性を
より高い全一性の質をおびるようになる。

月の光

光をとり入れようとしないこと。
光が自然に入ってくる
正しい状況に身を置けばいいだけだ。
例えば、夜、月が出ているときに
窓辺に近づき、窓のそばに立てば
月は自然に甘露を降り注ぎはじめるだろう。
あなたは何もしなくていい。
月の光が降り注いでいる場所に
立てばいいだけのことだ。
みずからを正しい<場>に置くだけで
ものごとは起こりはじめる
―このうえもなく価値のあることが。

光は引き入れるものではない
力ずくで引き込むものではない。
窓が開いていれば
光はひとりでに入ってくる。
扉が開いていれば
光はあふれるように差し込んでくる。

光はもち込まなくてもいい。
光は押しいれなくてもいい。
光は引き込まなくてもいい。
光をどうして
引き込むことができるだろう? 
光をどうして
押し入れることができるだろう?
心を開き、光に対して
感じやすくなっているだけでいい。

窓を開く

光は、はなはだ動きやすい。
光はつねに動いている。
光とは運動に他ならない。
この世で光ほど速く動くものはない。
光の速さは一秒間に十八万六千マイルだ。
光より速いスピードで動くものはない。
光は純粋な速さだ。
それは速さの別の名前だ。
光はけっして眠り込まない。
光はつねに躍動し、つねに動き
つねに流れている。

光は、はなはだ動きやすい。
両目の中間に思念を定めると
光は自然に流れ込んでくる。
心配しなくてもいい。
窓を開けて、ただ待てばいい。
光は動いてやまない現象だから
窓が開いていれば、流れ込んでくる。
実のところ、光は何生にもわたって
窓を叩きつづけてきたのだが
窓は閉ざされたままだった。

そして光は窓をこじ開けることができない。
それは朝がきて太陽が昇っているのに
深く眠りこけているのに似ている。
光線は窓に達し、窓を叩いている。
だが、そのノックの音は聞こえない。
光は音を立てないからだ。
光はそこで待っている。
目を覚まして、窓を開けたとたんに
光が流れ込んでくる。
そして光とともに生命が入ってくる。
光とともに喜びが入ってくる。

両目の中間に思念を定めると
光は自然に流れ込んでくる。
「自然に」という言葉に心をとめなさい。
あなたは行為の主体ではない。
あなたは一種の手放し状態にある。
あなたは光に明け渡している。

それを感じる

ルートヴィッヒ・ヴィットゲンシュタインは
「神秘的なのは世界の成り立ちではなく
それが存在するということだ」と言っている。
世界が存在すること自体が神秘だ。
どこか他の場所に出かけてゆく必要はない。
神秘は隠されていない。
神秘は至るところにある。
世界が存在すること自体が神秘だ。

神秘を探すために
深く掘り下げる必要はない。
神秘は至るところにある。
深みにだけでなく表面にもある。
ただそれを感じる
こころハートがあればいい。
ただいつでも呼応できるように
開いている実存があればいい。

ただ油断なく醒めていれば
――努力や緊張をいっさいともなわずに
油断なく醒めていればいい。
必要なのは瞑想の状態だけだ。
それがあれば、<存在>の恩恵が
雨のように降り注ぎはじめる。

風景の焦点

思考を見つめる必要はない。
すきまを求め、すきまを
のぞき込まなければならない。
すきまを探し、そのすきまのなかに
飛び込まなければならない。
すきまに飛び込んでいたなら
彼は思考が消え、夢が消え
記憶が消えてゆくのを見ただろう。
あらゆるものが置き去りにされ
しだいにそれは遥か遠くに聞こえる
物音になってゆく。

ふと気づくと
世界の見え方が変わっている。
両目は二元的な世界や思考をつくりだし
両目のあいだにあるひとつの目は
すきまをつくりだすからだ。
これは見ている風景の焦点を変える
単純な技法だ。

観想とは見ている風景の焦点を
そっくり変えることだ。
ふだん私たちは思考を見ている。
思考が次から次へと現れる。
風景の焦点を変えると
すきまが次から次へと現れる。
あなたはもはや思考ではなく
すきまを重視している。

例えば、あなたがたはここに坐っている。
私があなたがたを見る方法は二つある。
ひとりひとりを順番に見てゆくやり方と、
人のことは忘れ、人と人のあいだにある
すきまを勘定し、すきまがいくつあるかを
数えるやり方だ。
そうすればものの見え方がひっくり返る。

すきまを数えたら
驚くようなことが起こる。
すきまを見つめ
すきまを数えているために
人の輪郭がぼやけ
はっきり見えなくなってゆく。
いつか道端に立って、通り過ぎてゆく
すきまを数えてみるといい。
あなたは驚くだろう
― 車の色は目に入らない
車の型は目に入らない
車の運転手や乗客は目に入らない。
目に飛び込んでくるのはすきまだ
― ひとつのすきまが過ぎ去ると
次のすきまがやって来る。
あなたはすきまを数えつづける。
風景の焦点は変化している。

観想とは見ている風景の焦点を
変えることだ。
ひとつの思考から別の思考へと
飛び移るのではなく
ひとつのすきまから次の
すきまへと飛び移ってゆく。
徐々に徐々にすきまへの

気づきが増してゆく。

それは生の最大の秘密のひとつだ。
なぜならそのすきまを通して
あなたはみずからの実存へ
みずからの中心へと
落ちてゆくからだ。

客と家

もう一度、譬たとえを使って
説明してみよう。
道路を走っている車と
車のすきまを見ているとき
車がやって来たらどうするだろう?
あなたは車にも目をやるが
車の細部のことは気にかけない。
型、車種、年式、色
運転手、乗客のことは気にかけない。
そういった分析にはかかずらわない。
あなたはただ車を目にとめるだけだ。

車がやって来て
あなたの前を通り、去ってゆく。
再び、あなたはすきまに
注意を払うようになる。
あなたの関心はひたすら
すきまに注がれている。
だが、車がやって来たら
しばらくのあいだ
車にも注意を払わざるをえない。

やがて車は去ってゆき
あなたは再び安らぎ、観想
間合いのなかに落ちてゆく。
雑念が果てしなく
つづいてゆくときには立ち止まり
観想をはじめなければならない。
観想したら、再び見つめる。
だから、思考が
やって来るたびにそれを見つめ
思考が去るたびに観想する。

これらは両翼だ。
ひとつは、間合いがあり
思考がやって来ていないときに
観想するということ。
そして思考がやって来たら
これら三つのことを見る
―思考はどこにあるか、
どこからやって来たか、どこへ去ってゆくか。
しばらくすきまを見ることをやめて
思考を見つめ、思考を観察し
思考に別れを告げる。
思考が去ったら、ただちに観想を再開する。

これがすみやかに
光明を得るための二重の技法
つまり光を巡らせることである。
巡らせるとは見つめることであり
光とは観想のことである。
観想するたびに、光が
あふれんばかりに押し寄せてくる。
見つめるたびに、あなたは
循環を生みだし、循環を起こさせている。
どちらも必要だ。

光とは観想のことである。
観想せずに見つめるのは
光のない循環であり……
まさにそれが起こっている。
ハタ・ヨーガにその不幸なあやまちが起こった。
彼らは一点を見つめ、集中するが
光を忘れてしまった。
彼らは客をすっかり忘れてしまった。
彼らはひたすら家の準備をしつづける。
家を準備することにかまけるあまり
彼らは何のために、誰のために
家を準備しているのか
その目的を忘れてしまった。

見つめずに観想するのは
循環のない光である。
彼らは光について考えるが
それが押し寄せてくるのに
そなえて準備したことがない。
彼らは光について考えるだけだ。
彼らは客について考える。
客について千とひとつのことを想像するが
家の準備ができていない。
どちらも取り逃がす。

これに注意しなければならない。
準備して待ちなさい。
用意を整えるのだ。
目を見張ったままでいることができれば
それはごく単純なプロセスであり、
大きな変容力をそなえている。

感応と反応

自然になりなさい。自然な人間は
責任リスポンシビリティを取ることができる――
なぜなら、彼は感応リスポンスするからだ。
自然ではない人間はけっして感応しない。
彼は単に反応リアクトするだけだ。

反応とは機械的であるという意味であり、
感応とは機械的ではなく
臨機応変に応答することをいう。
美しい花を見ると、あなたはふと
「きれいだな」とつぶやく。
それが反応なのか感応なのか
見守りなさい。
それを深くのぞき込み
詳しく調べてみなさい。

口にした「きれいな花だ」という言葉は
この瞬間、今ここであなたの内側から
自然に湧き起こった感応だろうか?
それは生の体験なのか、それとも他人が
「花はきれいだ」と言っているのを聞いたので
決まり文句をくり返しているだけなのだろうか?
それをよく調べ、観察してみるがいい。
誰があなたを通して話しているのだろう?

それは母親かもしれない……あなたは
母親に連れられてはじめて庭に、公園に
行った日のことを思い出さないだろうか。
彼女はあなたに
「この薔薇を御覧なさい。
なんてきれいなんでしょう!」と言った。
そしてこれまで読んできた本、これまで見てきた映画
かつて話した人々――
それらすべてが「薔薇はきれいだ」と言っていた。
それがあなたのなかに
プログラムして組み込まれてしまっている。
薔薇の花を見たとたんに
「きれいだ」と言うのは、
あなたではなく、そのプログラムだ。
それはレコードにすぎない。
録音テープにすぎない。
外側の薔薇が引き金になって
ただテープがくり返しているだけだ。
それは反応だ。

感応とは何か?
感応とはその瞬間に起こる
プログラムされていない生の体験だ。

あなたは花を見ている観念で
目をふさがれることなく
しっかり花を見ている。
あなたはこの花を
その現前げんぜんを見ている。
知識はすべて脇によけられている。

こころハートは感応し
頭マインドは反応する。
責任はこころハートから生まれる。
あなたは何も言わないかもしれない。
実際「これはきれいだ」などと
言う必要はない。

聖人の行い

思念が起こらないときには
正しい思念が湧いてくる。
これは奇蹟だ――
思いが微塵みじんも湧いてこないときには
何をやっても正しい行いになる。

何が正しく何が間違っているかを
判別するということではない。
思考マインドが静まり
こころハートが
神によって動かされるとき
起こることはすべて的を射ている。

正しいことをすれば
聖人になるというのではない。
あなたが聖人であれば
あなたが為すことはすべて
正しいものになる。

その座を譲る

正しい行為をすることで
聖人になろうとしているのであれば
それはひたすら
自分を抑圧してゆくことに他ならない。

間違ったことを抑圧しつづけ
正しいふりをしつづけている。
あなたは偽善者になる。
聖人になろうとしてはいけない。
神にその座をゆずってしまいなさい。

ただからっぽになり、明け渡して
手放しの状態になりなさい。
神にハートの動きをゆだねれば
あらゆるものが美しくなる。

そうなったら
起こることはすべて正しく
間違いが起こることはない。
つまり
自我エゴから生まれるものは
すべて間違っているということだ。

生の手中

生きているものを所有したとたん
あなたはそれを殺してしまう。
なぜなら何かが財産になったとたん
それは生命を失ってしまうからだ。
樹を所有すれば
その樹はもはや生きてはいない。
女や男を所有すれば
あなたは相手を殺してしまっている。
何かを所有すれば
その結果は死でしかない。
というのも
所有できるのは死だけだからだ。

生は自由だ。
生は基本的に自由であり続ける。
生を所有することはできない。
生を銀行に預けることはできない。
生を線で囲い込むことはできない。
「これは私のものだ」などとは言えない。
そんなことを言うのは敬意を欠いている。
そんなことを言うのは自己中心的だ。
そんなことを言うのは狂っている。
生こそが私たちを所有している。
どうして私たちが生を所有しえるだろう?

私たちはもっともっと
生の手中に落ちていかなければならない。
構図ゲシュタルト
そっくり変わらなければならない。
所有欲を抱くことから、
人は全体に身をゆだねられるように
ならなければいけない。

独りだけではない

ボーディダルマ
「あなたは地獄に堕ちる。
あなたが行なってきたことはうわべは崇高で
宗教的に見えるが、奥深くでは
自我が得意そうに笑みを浮かべている」
と言ったのはそのためだ。

自我から生じるものはすべて
あなたを地獄へ
苦しみのなかへと連れてゆく。
自我を落とし
ものごとが起こるにまかせなさい
――風が吹くと樹が揺れ動き
太陽が昇ると鳥たちが歌いだすように。
<全体>に身をまかせきってしまいなさい。

あなたはこの生を
独りだけで生きているわけではない。
神があなたを通して
生きるがままにさせなさい。
そうすればすべてがよきものとなる。
神から生まれるものはすべてよい。

それが真の思念だ。
ものごとが静まり、悠然としていると
天の活動のあらわれが突然動きだす。
これこそ何の意図もない
動きではないだろうか?

今や個人的な目標がないのだから
あなたの人生には何の目的もない。
無為にして為すとは
まさにこれを意味する。

本当の生

本質とは何だろう?
本質とは仮面をつけていない
あなたの本来の顔のことだ。
本質とは生まれたときに
あなたが世界にもち込んだものだ。
本質とは子宮のなかで
あなたとともにあったものだ。
本質とは神—あるいは全一性、全体
<存在>なんと呼んでもいい —によって
あなたに授けられたものだ。
本質とは<存在>からあなたに
授けられた贈り物だ。

人格は社会、両親、学校、大学
文化、文明からの贈り物だ。
人格はあなたではない。それは偽者だ。
私たちはこの人格を磨き続け
本質を完全に忘れ去っている。
この本質を想起しないかぎり
あなたは虚しい生を送ることになる。
なぜなら本当の生は
本質的なものから成り立っているからだ。

本当の生とは本質を生きることだ。
それを「魂」あるいは「内なる神」と
呼んでもいい。 どんな名前で呼んでもいい。
だがその違いを覚えておきなさい。
あなたは着物ではない。
心理的な着物ですらない。

神の演劇

人が生きているのは
神が人を通して
生きることを望んでいるからだ。
人が行為するのは
神が人を通して
何かをしようと望むからだ。
だが、こちらへ行こうが
あちらへ行こうがそれは
人のあずかり知るところではない。

どんな役割が与えられても
あなたはそれを演じつづける。
それは神の演劇であり
脚本も監督も神がつとめている
――あなたは自分の役を
可能なかぎり完璧に演じる。

風に舞う枯れ葉

どんな役が与えられても
あなたはそれを演じ切る。
所帯を切り盛りしているなら
所帯を切り盛りするがいい。
商売をやっているなら
商売をつづけるがいい。
そういったものを変える必要はない。

ひとえに必要なのは
自分がやり手であるという考えを落とし
ある目標に到達しなければならないという考えを落とし
どこかにたどり着かねばならない
という考えを落とすことだ。

どこであれ
神が望むところへ運ばれてゆきなさい。
風に舞う枯れ葉になりなさい
―― そうすればすべてがよきものとなる。

そうすれば生は至福に満ちてくる。
もはや緊張などありえないし
不安も起こらない。
失敗のしようがない。
欲求不満を覚えることはけっしてない。
なぜなら、そもそも
最初からあなたは何も期待してはいないからだ。
これが目的のない生を生きることだ。

贈り物

彼らはまさに風のなすがままに
運ばれてゆく流木のようだ。
彼らの生は偶発的なものだ。
この「偶発的」という言葉を
覚えておきなさい。
何百万もの人々が
ただ偶発的な生を生きている。

自分の生のたずなを握り
それを偶発的なものから
実存的なものに変えてゆかないかぎり
変容は起こりはしない。
それがまさに
サニヤスというものに他ならない
――偶発的なものを
実存的なものに変えようとする努力
無意識の生を
意識的な生に変えようとする努力
目覚めようとする努力。

そうなったら生は
学びのプロセスになり
死もまたそうなる。
そうなったら人は学びつつづる。
そうなったら、一瞬一瞬、
ひとつひとつの状況が
贈り物としてやって来る。

そう、苦悩でさえも
神からの贈り物になる。
だが、学び方を覚え
贈り物の受け取り方を
身につけた者たちにだけだ。

光の山

覚者ブッダの目には
ただのきれいな石が
エリザベス女王にとっての
コイヌール・ダイヤモンドよりも
美しく見えている。
エリザベス女王には
世界最大のダイヤモンドである
コイヌールでさえ、覚者の目に映る
ふつうの石ほどにも
美しく見えてはいない。なぜだろう?
覚者の目は
光を放つことができるからだ。

その光を浴びると
ふつうの石がコイヌールになる。
ふつうの人々が覚者になる。
覚者にとっては
あらゆるものが仏性に満ちている。
「私が光明を得た日、全存在が光明を得た。
樹や山や川や岩――あらゆるものが光明を得た」 と
仏陀が言ったのはそのためだ。
全存在がさらなる豊かさへと高められた。

それは、あなたが<存在>に
どれだけ多くのものを注ぎ込めるかに
かかっている。
あなたが注いだ分だけが返ってくる。
何も注ぎ込まなければ
何ひとつ返ってこない。
得るためにはまず
注ぎ込まなければならない。

創造的な人々が
非創造的な人々よりも
美や喜びをたくさん知っているのは
そのためだ。なぜなら、創造的な人々は
<存在>に何かを注ぎ込んでいるからだ。
<存在>は応えてくれる
……気前よく応えてくれる。

調和

気の動きとこころハートの動きが
おのずから調和するように
配慮しなければならない。
いいかね、成果のことは気にかけなくていい。
成果はつねに
あなたの必要と力量に応じて現れる。
何であれあなたに準備ができていることが起こる。
成果が現れなければ
それはたんにあなたにはまだ
準備ができていないということだ。
そのための準備をしなさい。
成果を求めても役に立たない。

自分にまだ力量が足りないことを認め
こころハートを
もっと浄化し
もっと意識を集中し
もっと瞑想し
もっと静かになり、くつろいで、内界と
もっと調和してゆくことだ。
そして待ちなさい。

こころハートと気エネルギーが調和すると
成果はおのずと現れるからだ。
種子をまいてしまえば、土を掘り返し
毎日種子の様子を調べる必要はない。
そんなことをすれば種子は死んでしまって
けっして何も起こらなくなる。

何ヶ月も何も起こらないとしても
あなたはただ待つより他にない。
何ヶ月も何も起こらないとしても
あなたは水をやり、肥料をやり
世話をしつづけなければならない。

精神の火

鳥が朝になると空に飛んでゆき
日が暮れると巣にもどってくるように
それは世間に出てゆきもどってくる。
みずからのエネルギーを
くり返しくり返し巣にもどってこさせなさい。
エネルギーを自分に帰らせずに
出てゆくままにしておいてはいけない。
そうすればあなたは貯水池になり
内側でとほうもなく力強くなる。
その力のなかではじめて直観が働きはじめる。

その力のなかで精神の火が生まれる。
その力のなかで真の光の極が現れる。
その力のなかでみるみる真珠の種子が育ってゆく。

それはあたかも男女が交わって
受胎が行なわれるようなものである。
このときには静かな状態で
待たなければならない。

瞑想が完成すると
祈りがはじまる。
瞑想を祈りへと成長させること
―タオの仕事はそれにつきる。

祈り

外側の男が外側の女と出会えば
子供が生まれ赤ん坊が産み落とされる。
内なる男が内なる女と出会うときにも
子供が生まれるが、あなたは
親であると同時に子供にもなる。
あなたの内側に新しい生命いのち
覚者ブッダの生命
<光明エンライトンメント>の生命
不死の生命が芽生える。
このときには静かな状態で
待たなければならない。

内側でこの受胎が感じられたら
内なる男性が内なる女性を貫き
女性が受胎したのを感じたら、あとはもう
ただ待てばよいだけだ
―女性が九ヶ月間、大いなる喜び
大いなる祈り、大いなる希望を抱いて待つように。

しなければならないことは何もない。
まったく何もする必要はない。
為すべきことは終わっている。
男性の役割は行為にある。
光を巡らせることが男性の役割だ。

ひとたび受胎が起こり
内なる女性が妊娠したら
男性的な部分は働く必要がない。
それは休まなければならない。
あとはものごとが自然に成長してゆく。
瞑想が最初の部分であり、
あとは祈りだけが残されている。

遠く離れた中心

日常生活のなかで
自他の思いをいっさい混入することなく
ものごとに対して
つねに打てば響くように
対処する力をもつなら
それは環境から生じる光の循環である。
これが第一の奥義である。

そして様々なものごとが立ち現れたら、
行為しながら、しかもその行為に
同一化してはいけない。
傍観者にとどまりなさい。
何であれ必要なことは
打てば響くようにやりなさい。
必要なことはすべてやりつつ、
しかもやり手になってはいけない。
それに巻き込まれてはいけない。
それをやり、それを
終わらせてしまいなさい
――打てば響くように。

主観を交えずに行動しなさい。
状況に留意して、何であれ
必要なことをやるがいい。
だが、その行為に
執着してしまってはいけない。
そのことを心配してはいけない。
結果を考えてはいけない。

必要なことをただやり
油断なく目を見張り
泰然自若として
遠く離れた中心にとどまり、
そこに根をおろすがいい。

昔の岸辺

決然とした態度を取ることは
とほうもなく重要なことであり意味がある。
純一なこころハートで
決然と実行しなければならない。
呂祖が言おうとしているのはそのことだ。
いったん決意したなら、全身全霊を込めて
それを実行しなければならない。
後もどりしないことを
はっきりさせておかなければならない。

サニヤシンたちに
「橋を壊しなさい」と
くり返して言うとき
私が言おうとしているのはそのことだ。
後もどりしないのだから
橋を残しておく必要などないではないか?

梯子を捨ててしまいなさい。
船を沈めてしまいなさい。
昔の岸辺に二度と
もどることはないのだから。

静けさの極点

内側にある種子をすべて
焼きつくさなければならない。
内側にある青写真をすべて
焼きつくさなければならない。
その青写真を焼き、種子を焼き
内側にあるものをすべて放り出して
ただからっぽになっていると
彼方から何かがあなたのなかに入ってくる。
楽園が地上に浸透してくる。
それが変容の瞬間だ。

この変化とともに
全存在が一変してしまう。
女性も、子どもも、人々も、会社も
騒々しい街中も、 すべては元のままだが
もはや前と同じではない。
それはあなたがすっかり
変わってしまったからだ。
これが正しい変容の道だ
――けっして外側からはじめてはいけない。
内側からはじめなさい。
こころというものは
静けさの極点にまで達しないかぎり
動くことのできないものだ。

最初は全身全霊で取り組まなければならない。

いいかね、水が百度の熱で蒸発するように

―九九度や九九・九度ではなく

百度で蒸発するように

あなたがもてるすべての力を振り絞って

百度に達したときには

ただちに卑金属が黄金に変わる。

朝と夜

少なくとも一日に二度は
―― 最良の時間は早朝
ベッドから出る直前だ。
頭がはっきりし
目が覚めてきたと感じたら
二十分間それをやりなさい。
朝、何よりもまず最初に
それをやりなさい。
ベッドから出てはいけない。
そこでそれをやりなさい。
その場でただちにやりなさい。

なぜなら
眠りから出てこようとしているとき
あなたは非常に繊細で
受容的になっているからだ。
眠りから出てこようとしているとき
あなたはすがすがしく
いきいきとしているから
影響は非常に深く浸透してゆく。

もう一度くり返そう
―― 息を吸うときには
黄金の光を頭から
入ってこさせるようにする。
黄金の華はそこで待ち受けているからだ。
この黄金の光は助けになる。
それは全身を洗い清め
創造力をすみずみにまでゆき渡らせる。
これは男性的なエネルギーだ。

そして息を吐くときには
想像しうる最も暗い闇を
闇夜のような川のような
暗闇を爪先から昇らせ
――これは女性的なエネルギーであり
あなたをなだめあなたを受容的にさせ
あなたを落ち着かせ あなたを休ませる
――そして頭から出てゆかせなさい。
そして再び息を吸い
黄金の光を入ってこさせる。
朝早くこれを二十分間やりなさい。

次によい時間は夜再び
眠りにつくときだ。
ベッドに横になり
しばらく力を脱いてくつろぐ。
今や眠りと目覚めのあいだを
行ったり来たりしている。
ちょうどその只なかにいると
感じはじめたらプロセスを再び開始して
二十分間続けなさい。
それをやりながら
眠ってしまうのがいちばんいい。
なぜならその影響は
潜在意識のなかにとどまり
作用しつつけるからだ。

スブーティ

……スブーティも樹の下に坐っていたが
瞑想すらもしていなかった。
他の者たちは瞑想をしていたが
彼はただ何もせずそこに坐っていた。
それは最も高度な瞑想の姿だった……

瞑想を理解した者は
するという見地で
とらえることさえできない。
何かをしたとたん、
あなたが揺れ動くからだ。
何かをしたとたん、
あなたは緊張する。
何かをしたとたん、
自我が再び裏口からしのび込む
――行為とともに行為する者が
現れてくるからだ。

瞑想とは無為の境地だ。
確かに最初のうちは
やらなければならない。
だがゆっくりと瞑想が深まるにつれ
理解が生まれ、行為は消えてゆく。
そうなったら瞑想は行為ではなく
実存のありようになっている。

行為は所有の世界の一部だ。
行為は所有のもうひとつの側面だ。
もちたければ
行為しなければならない。
もちたければ
行為せざるをえない。
数限りない人々が
行為と所有の世界にとどまっている。

これら二つの彼方にもうひとつの世界
――存在ビーイングの世界がある。
そこではあなたは何ももたず
行為の主体でもない。
すべては完璧に静かだ。
すべては完全に受動的であり
さざ波ひとつ立っていない。

……だから彼は
瞑想をしていたのではない、いいかね。
彼は何もせずにただ坐っていただけだ。

すると突然、彼のまわりに
花が舞い落ちはじめた。