サーダナキャンプ

◯新しい朝

 

人の心の中に
光がなければ、
人生には
何の意味もない。
心の中に光がなければ、
生に喜びを
感じることはできない。

 

ほんとうは
何も消えていないし
ほんとうは方向性も
失っていないが、
もし目を閉じていれば
闇はどこにでも広がり、
方向性の感覚は
すべて失われる。

目を閉じれば
人はすべてを失い、
目を開ければ
王となる。

 

私たちが
この孤独な場所に
集まったのは、
私があなたに何かを伝え、
あなたが聴いてくれるように
するためだ。

この伝えることと
聴くことは、
愛のレベルでしかできない。
心の扉は
愛だけにしか開かれない。

そして頭ではなく
心で聴いてこそ、
ほんとうに何かを聴くことが
できるということを、
覚えておきなさい。

 

あなたは
「心も聴くのですか」と
尋ねるかもしれないが、
聴くことがあるときは
いつでも
聴くのは心だけだ。

これまでのところ、
頭は何も
聴いたことがない。
頭は石のように
耳が聞こえない。
そして
これは話すことにも
当てはまる。

 

ことばは心から
出たものだけが
意味を持つ。
心から発する言葉だけが、
新鮮な花の香りを
持っている。

私はあなたに
私の心を注ぐ。

 

あなたの心に私が
入ることを許すならば、
そこには出会いと
コミュニケーションが
あるだろう。

言葉では
表現できないことが
伝わるのは、
この交わりの瞬間だ。

こうして
多くの語られていないことも
聴くことができ、
言葉にできないこと、
行間にあることも
伝えることができる。

 

言葉はとても
無力な記号だが、
完全な安らぎと
静寂のなかで聴けば、
力強くなる。
これを私は
「心で聴く」と言う。

 

このサーダナキャンプの
5日間のプログラムを
明日の朝から始めるが、
最初にいくつかのことを
話させてほしい。

自分の修行
真理の実現のためには、
花を育てるための土を
準備するように、
心を準備しなければ
ならない。

それゆえに、
いくつかの格言を
心に留めておきなさい。

 

◯今を生きる

 

1つめの格言は、
「今を生きる」だ。

キャンプ中は、
過去や未来について
考える習慣に
流されてはならない。

もしあなたが
流されてしまうならば、
生の瞬間、ほんとうに
大切なものは無駄になり、
意味もなく
過ぎ去ってしまう。

 

過去も未来も
存在しない。
過去は
記憶のなかだけであり、
未来は
想像のなかだけだ。

現在だけが現実であり、
生きている。
そして
もし真実が
知られるとしたら、
それは現在を通して
知られることしか
できない。

 

キャンプ中は、どうか
過去からも未来からも
距離を置いて
もらいたい。
それらは
存在しないことを
受け入れてほしい。

あなたがいる、
この瞬間だけが存在する。
あなたがいる
この瞬間だけが存在し、
他には何もない。

あなたは
そのなかで生き、完全に
生きなければならない。

 

あなたの
過去のすべてが
漂流して
しまったかのように、
今夜はぐっすりと
眠りなさい。

過去に死になさい。
朝には新しい人として
起きなさい。
なぜならば、それは
新しい朝だからだ。

 

眠った者を
目覚めさせないように。
良い眠りにつくように。

永遠に新しく,
いつまでも新鮮な者に
起きさせなさい。

 

◯自然に生きる

 

2つめの格言は
「自然に生きる」だ。

人間のすべての行動は
人工的であり、
条件づけの結果だ。

私たちは常に
偽の外套に
身を包んでおり、
この覆いのために、
徐々にほんとうの存在を
忘れている。
この偽りの外被を
脱ぎ捨てなさい。

 

私たちはドラマを
上演するために
ここに集まったのではなく、
ほんとうの
自分自身を知り、
見るために集まった。

劇中の俳優たちが、
演技のあとに
衣装や化粧を取って
脇に置くのと同じように、
この5日間では、
あなたの偽りの
仮面を外して、
脇に置かなければ
ならない。

あなたの中にある
根源的で自然なものに
出て来させなさい。
そしてその中に
生きなさい。

 

自分の修行
自分の道は
単純で自然な生を
通してのみ開く。

このサーダナキャンプの間
あなたは
何の地位も、職業も
持っていないことを
意識しなさい。
これらすべての仮面を
捨てなさい。

あなたはただの
あなたであり、
名前も身分も
階級も家族も
カーストもない普通の人、
名も無い、
ごく普通の人だ。

あなたはこのように
生きることを
学ばなければならない。

 

なぜならば
ほんとうのところ、
それが
あなたなのだ。

 

◯一人で生きる

 

3つめの格言は
「一人で生きる」だ。

修行は
完全な孤独のなか、
まったくの
一人であるときに生まれる。
しかし
一般に人は決して
一人あることはない。
常に他の人たちに
囲まれている。

 

外側の周りに
群衆がいなければ、
その人は内側の群衆の
中心にいることになる。
この群衆も
散り散りにさせなければ
ならない。

このキャンプでは
完全に一人で
あるかのように、
生きなさい。
誰か他の人との関係を、
保ち続ける必要はない。

数え切れないほどの
人間関係の中で、
あなたは自分自身を
忘れてしまっている。

 

敵か味方か
父か息子か
妻か夫か、
これらすべての関係が
あなたを飲み込んでしまい、
自分の中に自分の存在を
見つけることも
知ることも、
できなくなって
しまっている。

あなたは今までに
これらの関係から離れて、
自分が何であるかを
想像しようとしたことが
あるだろうか?

あなたは今までに
これらの関係の衣装を捨てて、
それからかなり離れた
自分を見たことが
あるだろうか?

 

これらすべての関係から
自分自身を取り除き、
自分が父親や
母親の息子ではなく、
妻の夫でもなく、
子供の父親でもなく、
友人の友人でもなく、
敵の敵でもないことを
知りなさい。

そして
残っているものが、
あなたのほんとうの
存在だ。
あなたの中に残るものが、
あなた自身だ。

 

これらの日々の間
あなたはその存在の中で、
一人で生きなければ
ならない。

 

◯波と海

 

瞑想は無行動だ。
行動とは、
自分の思い通りに
するかしないかのことだ。

しかし、人の本質と
行動には違いがある。
人の本質は行動ではなく、
行うことでも、
行わないことでもない。

海は波のために
存在しなくなることは
ない。
それは波の魂であり、
波の中にも存在している。

 

知っている人は
波の中にでさえ
海を認識しているが、
知らない人は
波が鎮まるまで
待たなければならない。
彼らは
波が去った後にしか、
海を見ることができない。

 

私たちはこの海に
本質そのものに、
飛び込まなければならない。
波のことを忘れて
海に飛び込まなければ
ならない。

波のない海
なることなく存在している
自分自身の深さを、
知らなければならない。

 

この波がなく
動かない意識の万象は
常に存在しているが、
私たちはそれに
気付いていない。
その存在から
顔を背けている。

私たちは外を見て
物事を見て、
世界を見ている。
しかし、1つのことを
心に留めておきなさい。

 

私たちは見ていて、
見られているものは
世界のものだ。

しかし、見るものは
世界ではなく、
自己だ。

 

◯考える人

 

私はあなたに
思考を破壊してくれとは
頼まない。
思考は瞬く間に
勝手に死んでしまうからだ。
思考は非常に短命で、
どんな思考も
長くは続かない。

 

特定の思考は
長続きしないが、
思考の過程は
長続きする。

思考は次々と
死んでいくが、
思考の流れは
持続する。

一つの思考が
死ぬとすぐに、
別の思考が
代わりに現れる。

このプロセスは
非常に早く行われ、
これが問題なのだ。

 

ほんとうの問題は
思考の死ではなく、
その素早い再生だ。
それゆえに、
私はあなたに
思考を殺せとは頼まない。

思考の誕生の過程を理解し、
どうすればこの過程から
自分自身を
取り除くことができるのかを
理解しなさい。

 

思考が生まれる過程を
理解している者は、
簡単に思考から解放される。

しかしそのプロセスを
理解していない者は、
新たな思考を生み出し、
同時にそれに
抵抗しようとする。

その結果
思考が終わるどころか、
思考と闘う者自身が
こわれてしまう。

 

思考は問題ではなく、
思考の誕生が問題なのだ。
思考がどのように
生まれてくるかが、
問題なのだ。

私が言うのは、
思考を壊すのではなく、
思考が生まれることを
止めならなければならないと
いうことだ。

 

言葉の習慣
思考はどのようにして
生まれるのだろうか?
思考の受胎と誕生は、
外の世界に対する
私たちの反応の結果だ。

外には出来事や
物の世界があり、
この世界に対する
私たちの反応が
思考の誕生を
単独で担っている。

 

私は花を見る。
見ることは
考えることではなく、
ただ見ているだけでは
何の思考も生まれない。

しかし、見たときに
「とてもきれいな花だ」と
言えば
思考が生まれる。

一方で、もし花を
見続けていれば
その美しさを体験し、
楽しむことはできますが、
思考は生まれない。

 

しかし、私たちは
経験をすると
すぐにそれを
言葉で表現し始める。
この経験を
言葉という記号で
表現することで、
思考が生まれてくる。

 

この反応
経験を言葉で
表現する習慣は、
経験、実現、視覚を
思考で窒息させる。

経験は抑圧され
視覚は抑圧され、
心の中には
言葉だけが浮かんでいる。
これらの言葉は、
まさに私たちの思考だ。

 

これらの思考は
非常に短命なので、
一つの思考が死ぬ前に、
私たちは別の経験を
思考に変換する。
この過程は、
私たちの生涯を通じて続く。

そして、私たちは
言葉で満たされ
言葉に圧倒されて、
言葉のなかで自分自身を
見失ってしまう。

 

自分の視覚や経験を
言葉で包む習慣を
手放すことは、
思考の誕生を
止めることになる。
そのことをどうか
理解してほしい。

 

◯愛着と嫌悪

 

愛着と嫌悪の
両方からの自由は、
知によって
達成される。

執着は
一種の無知であり、
執着にうんざりした時の反応は
嫌悪だ。
この嫌悪の反応も同じように
また無知だ。

1つめのケースでは、
人は世界に向かって走り、
2つめのケースでは
世界から逃げる。
どちらの場合も
人は走る。

 

しかし、私たちの内に
秘められている喜びが
世界を追いかけたり、
世界から逃げたり
することによってではなく、
自分自身にしっかりと
留まることによって
達成されることを、
皆はほとんど知らない。

世界に向かって
走ってはならないし、
世界から
逃げてもならない。

私たちは
ほんとうの自分自身に、
入っていかなければ
ならない。

覚えておいてほしい。
私たちは
自分自身の中に、
入っていかなければ
ならない。

 

この自己の中に
入ることは、
愛着や嫌悪によっては
不可能だ。
愛着と嫌悪の間に内在する
対立を見る者になることに
よってのみ、可能だ。

私たちのなかには、
愛着と嫌悪の両方を
観るものがいる。
私たちはそれを、
知らなければならない。

 

見るものを知ることで
私たちは自動的に、
愛着と嫌悪の両方からの
自由を得ることができる。

 

◯手放すこと

 

第七の質問:
なぜ、ディヤーナ、瞑想は
行為ではないと言うのですか?
それは同様に
行為ではありませんか?

 

Osho:
どうか、ここを見てほしい。
私の拳は閉じている。
拳を閉じるには
積極的に行動しなければならない。
拳を閉じることは行為だ。

しかし、それを
開きたいと思ったとき
私は何をしなければ
ならないのか?
開くために、
何もする必要はない。

 

拳を閉じる
努力を捨てれば
自動的に拳は開き、
手は自然で
正常な状態に戻る。
したがって、私は
拳を開くことを
行為とは呼ばない。

それは無行為であり
お望みであれば、
それを負の行為と
呼んでもよい。
しかし、それは
何の違いもない。

 

私は言葉では
議論しない。
私の言っていることを
理解してほしい。

そのほんとうの意味を、
理解してほしい。

 

◯徳のある人

 

道徳、規律とは
振舞いの浄化、
行いの浄化を意味する。
それは、人間の人格を
周辺部で
変えようとするものだ。

この人格の周辺部は
他者との付き合いの
結果だ。
それは自分の振舞い、
他者との関係だ。

 

自分が他人に
どのように反応したり、
行為したりするかは、
自分の振舞いだ。
振舞いとは
関係性なのだ。

実際のところ
道徳を教えても、
宗教的なことはおろか、
人を道徳的にすることは
できない。
単なる善行は、
人を道徳的にはしない。
変容には、
内面の浄化が必要なのだ。

 

自分の内面を
変えなければ、
行動を変えることは
できない。
中心を変えずに
周辺を変えようとするのは、
自分自身に
苦悩を押し付けることに
他ならない。

 

この抑圧は
社会の要求を
満たすものであることは
間違いないが、
それは人の中に二面性を
作り出す。
人格はその自然な
単純さを失い、
自分自身の中の葛藤に
苦しむ。

 

そもそも抑圧とは
何だろうか?

抑圧とは
内なる存在の中で
自然発生的な感情が
育つことを許さず、
その表現を
許さないことであり、
実際には存在しないものを
表現することだ。

偽善もまた
抑圧に基づく、
道徳から生まれる。
それは
自分自身を内なる葛藤から
解放するための手段だ。

 

すでに述べたように、
私たちのいわゆる
道徳的な生活の中では、
自然に生まれる感情が成長し、
表現されることを許さず、
実際には存在しない感情を
表現してしまう。

人が自分の行動を通して
何を表現しようと、
それは重要ではない。
ほんとうに重要なのは、
その行動につながる
内的な原因だ。

 

行動は内なる
精神の表れであって、
根源ではない。

行動とは、
内なる精神の
外向きの表現なのだ。

 

◯酔っぱらい

 

すでに話したように
道徳や規律は
抑圧につながり、
抑圧に基づく振る舞いは
偽善につながる。

残念ながら
私たちの文明は、
この2つの選択肢しか
提供していない。

しかし、3つめの
選択肢もある。
動物の生を生きることだ。
犯罪者は
この選択肢から生まれる。

 

もし私たちが
動物になることから
自分自身を
救いたいと願うならば、
私たちの文明には
2つの選択肢しかない。

動物になるということは、
無意識の本能に完全に
身を委ねるということだ。
私たちは酔うと
まさにこの無意識を求める。
酔わせるものを求めるのは、
動物になりたいという
欲求の表れだ。

 

徹底的に酔っぱらって
無意識になったときにのみ、
人間は自然と一致し、
動物と一致する。
しかし、これは
死に等しい。
これは深刻であり、
非常に慎重な検討に値する。

 

酔っているときに
人間はどのようにして
動物になり、
なぜ動物になるために
酩酊しようと
するのか?
それは、人間の意識が
動物の世界や
自然の一部ではなく、
神性の一部であるという
事実を示している。

 

それは
魂の可能性だ。
それは種であり
破壊されるべきものではなく、
育まれるべきものだ。

その完全な成長には
自由、解放、至福が
かかっている。

 

◯木に花が咲くように

 

第二の質問:
あなたは
「道徳性は社会的有用性である」と
言いますが、
個人にとっては
無益なのでしょうか?
それは個人には全く
役に立たないのでしょうか?

 

Osho:
道徳や道徳的行動は、
社会に関する限り、
単に実用主義的なものだが、
個人にとっては、
それは実用ではなく
喜びだ。
したがって
社会のニーズは疑似道徳でも
満たされるが、
個人にとってはそれだけでは
十分ではない。

 

他人に対して
良い振る舞いをすることは
社会にとっては
それで十分だが、
個人にとっては
それで十分ではない。

自分の内面が
良いかどうか。
このことをこそ、
見極めなければならない。

 

社会は
あなたの内面ではなく、
あなたの人格に
関心を持っている。
しかし、あなたにとって
人格は衣服にすぎない。
この覆いが外れたところから
あなたは始まる。

この人格の仮面から離れて、
その背後にあるのが
あなたのほんとうの存在だ。
そして、ここに
ほんとうの道徳が生まれる。

 

道徳は
木に花が咲くように、
自ずとやってくる。
それは
達成ではない。
瞑想の種が蒔かれ、
道徳の作物が収穫される。

 

道徳は努力によって
達成されるものでは
ない。
瞑想によって達成され、
到達されるものなのだ。
瞑想からは
平穏と調和と
美しさが流れてくる。

そして、自分の中で
平穏である者は、
ほかの人を
落ち着かなくさせることは、
できない。

 

自分の中に
音楽を持っている者は、
自分の音楽の響きが
周囲から
反響していることに気づき、
自分の中に
美を持っている者は、
自分の振る舞いが
すべての醜さを
消し去る原因になることに、
気づくだろう。

これらすべては、
それ自体が
道徳ではないだろうか。

 

 

◯自由を歩く

 

観察すること。
自分自身を
常に観察すること。

心の無意識の傾向を
観察することで、
意識が覚醒し
無意識の心の中に
入り込むことが、
できるようになる。

無意識は
昏迷、無知
酩酊、不注意の
扉から意識に入り込み、
意識を支配することが
できる。

 

私たちは、
動物的な傾向が
愛着から発展することを
見てきた。
怒りと欲望は
無意識の時だけ
私たちをつかみ、
動物的な本能を
満たすために
酔わせるものを探す。

意識は
無意識の心の中に
酩酊を
克服することによって
気をつけること、注意
気づいていることを
通じて入り込み、
そこに権威を確立する。

 

気をつけることと
気づいていることが
私たちの中で成長し、
私たちの傾向
行為、情熱
欲望に対する正しい気づきと
観察が成長するにつれて、
それと同程度に
意識が私たちを
満たすようになる。

そして
それらの駆り立てや
情熱の爆発
盲目の、無意識の衝動は
消えてゆく。

なぜならばそれらは
睡眠、無感覚と
妄想の状態でのみ
存在することが
できるからだ。
意識状態では
存在できないのだ。

 

瞑想から観察へ
観察から知へ
知から自由へ
これが道だ。

私はあなたに
この道を理解し、
この道を
歩いてほしい。

 

◯馬の影

 

ある人がブッダ
「私の心はとても
落ち着きがありません。
それを落ち着かせる方法を
教えてくださいませんか。」と
言った。

ブッダは質問によって
答えた。

「あなたの心は
どこにありますか?
それを持ってきなさい。
そうしたら私は
落ち着かせるでしょう。」

 

その人は言った。
「それが難しいのです。
それを捕まえようとしましたが、
どうしてもできませんでした。」

 

もし私が
ブッダのところにいたならば、
言っただろう。

「それを捕まえようとしないで、
そのままにしておきなさい。
それを捕まえようとする
あなたの願望が
まさにその
落ち着きのなさなのだ。」

「あなたは影を
捕まえることが
できるだろうか?」

 

ブッダが他に何と言ったか
知っているだろうか?
彼は言った。
「私を見てください。
私はそれを落ち着かせたのでは
ないですか?」と。

 

昔の人はよく
馬の鞍替えをしようと
するときに
馬を疲れさせた方がいいのか、
それとも手綱を
締めた方がいいのか、
と尋ねたものだ。

また
心を征服するために、
心を支配するために、
この2つの方法があった。
しかし、私は
この2つの方法のどちらも
処方しない。

 

まず1つめに
ほんとうに
馬がいるのかどうかを、
確認してほしい。

あなたは疲れている。
まったく存在しないものに、
馬具や鞍をつけようとして。

馬がいないのだから、
どちらの努力も
役に立たない。
馬はあなたの
無知の影なのだ。

 

目覚めたとき
征服すべき、
馬も心もないし
支配すべき、
馬も心もない。

 

◯夢を見る者

 

真理は
あなたの中にある。
それは私の中にある。

それは
明日あなたの中に
あるのではなく、
今ここで
この瞬間に
あなたの中にある。

私はある。
私の存在自体が
私の真理だ。

 

私が見たものは
真理ではないかもしれないし、
それはすべて
夢かもしれない。

私も夢を見ていて、
その間に見ているものは
真実のように見える。

あなたは私にとって
夢なのかもしれない。
私が夢の中にいて
あなたは
ここにまったく
いないのかもしれない。

 

しかし、見る者は
偽りではありえない。
見る者は、
夢の中にいることが
できない。

なぜならばもし
いたとしたら、
それが夢であることが
わからないからだ。

夢は夢を見ることが
できない。
真理でないものは、
真理でないものを
知ることができない。

夢を見るためには
自分自身が夢ではない者が、
必要だ。

 

真理でないものを
見るためにさえも、
真の見る者が必要だ。

したがって私は
私が真理であると言う。

 

真理は
私の存在だ。
私はそれを求めて、
どこかに行く必要はない。

 

◯決意すること

 

たった一瞬の決意
サンカルパ、
完全な決意だけで
十分であり、
それなしの人生には
意味がないといえる。

 

重要なのは
時間ではなく、
決意であることを
覚えておいてほしい。

世界における成果は
時間の領域で達成され、
真理の成果は
決意の領域で達成される。

 

サンカルパ、決意は
あなたの修行の中に、
生きていなければならない。

 

Sadhana path 修行の道
和尚 (1931-1990)