信心銘


 01 至道無難 唯嫌揀択
    但莫憎愛 洞然明白

   しどうぶなん ゆいけんけんじゃく
   ただそうあいなし とうぜんめいはく

 至上の道というのは
 難しいものではなく
 ただ分別を嫌う。
 ただ憎愛の想いが無ければ、
 はっきりと明白である。

 修行の道というものは
 分別によらず、
 憎しみや愛好の思いを
 棄てるところから始まる。

 02 毫釐有差 天地懸隔
    欲得現前 莫存順逆

   ごうりゆうさ てんちけんかく
   よくとくげんぜん まくぞんじゅんぎゃく

 ほんの僅かな
 分別による差別の心が有れば、
 天地のようにはるかに隔たる
 世界が生まれる。
 ありのままの世界を
 捉えようとするならば、
 順逆の分別も
 あってはいけない。
 
 すこしの分別の心があれば、
 そこから私と他人
 人と動物、社会と個人などの
 すべての世界が起こる。
 ありのままの世界を
 見ようとするならば、
 これが正しいとか
 あれが間違いであるとかの分別をも
 捨てなければいけない。

 03 違順相争 是為心病
    不識玄旨 徒労念静

   いじゅんあいそう ぜいしんびょう
   ふしきげんし とろうねんじょう

 あれは違う
 それは正しいとかの
 争いが心にあれば、
 それこそが心の病。
 その道理を知らなければ、
 静かな心もいたずらに
 消えてしまう。

 わたしの心の中に
 なにが正しいとか
 間違っているとかの
 争いがあれば、
 それこそ心の病だ。
 そのほんとうに
 大事なことを知らなければ、
 修行しようとしても
 いたずらに疲れてしまうだけだ。

 04 円同大虚 無欠無余
    良由取捨 所以不如

   えんどうだいきょ むけつむよ
   りょうゆうしゅしゅ しょいふにょ

 分別を棄てて天空のように
 心がまどかになれば、
 欠ける所も余るところもない。
 まことに取捨分別があるから
 意の如くならなくなる。

 そのようにして
 順逆とか憎愛の分別を棄てて
 心が天空のように丸くなれば、
 なにかが欠けているとか
 余り過ぎるというような思いもない。
 ほんとうに取捨分別の働きによって、
 一切が思い通りにならないという
 不満が起こる。

 05莫逐有縁 勿住空忍
   一種平懐 泯然自尽

   まくちくうえん もつじゅうくうにん
   いっしゅへいかい ねいねんじじん

 俗世間の縁を
 駆逐せんとしてはいけない。
 空に住もうと
 忍耐してもいけない。
 ひとつの根本の態度を
 平らかに抱けば
 雑念は滅び、
 おのずから尽きる。

 修行のためと本心を隠して
 むりに俗世間を避けたり、
 自分に合わない空の法を
 無理に続けていてはいけない。
 むしろ分別のない自らの根本に立ち返れば、
 雑念はおのずから滅び
 消えてなくなる。

 06止動帰止 止更弥動
   唯滞両辺 寧知一種

   しどうきし しこうやどう
   ゆいたいりょうへん ねいちいっしゅ

 動く心を止めて
 静かにしようとすれば、
 その止める働きが
 さらに動きを起こす。
 止めるとか動かすなとかの
 分別を働かすよりは、
 ただひとつの
 根本の態度を知りなさい。

 瞑想のときに
 心を止めようとすれば、
 ますます心が動き回る。
 そのような
 止めるとか動くとかの分別を止め、
 むしろわたしの根本を
 追及しなさい。

 07一種不通 両処失功
   遣有没有 従空背空

   いっしゅふづう りょうしょしっこう
   いうもつう じゅうくうはいくう 

 わたしの根本に通じなければ、
 何もかもいかんようになります。
 有効なことをしようとしても
 消えてなくなり、
 空の法にしたがって
 心を止めようとしても無理だ。

 わたしの本心に還る事が無ければ、
 一切の法は意味がない。
 わたしに善いことを
 しようとしても上手く行かず、
 空の法をしようとしても
 駄目になったりする。

 08多言多慮 転不相応
   絶言絶慮 無処不通

   たげんたりょ てんふそうおう
   ぜつげんぜつりょ むしょふづう

 言葉や思考が多くては
 法も心に作用しない。
 ことばを絶ち、考えも絶てば
 わたしの本心にも通じる。

 言葉や考えが多くては
 本心に還る事はできず、
 いかなる法も効果をなくす。
 心の中でのことばや考えも絶てば、
 わたしの本心に
 通じないということはない。

 09帰根得旨 随照失宗
   須臾返照 勝却前空

   きこんとくし ずいしょうしっしゅう
   しゅゆへんしょう しょうきゃくぜんくう
 
 わたしの根本に還れば
 一切の法の意も得られますが、
 分別に従えば
 その根本をも失う。
 その分別を一瞬でも
 観察できたならば、
 一切の観念や妄想に打ち勝ち
 脱却する。
 
 父母の観念にさえも
 触れないわたしの根源に帰れば、
 一切の法も明らかとなり、
 悟りも得られる。
 記憶の照会による認識を
 行っていれば、
 その根本の姿も
 見失ってしまう。

 しかし
 その認識の作用も一瞬でも
 顧みられたならば、
 自我を滅し悟りもえられ
 観念妄想も無くなる。
 返照とは
 そのような認識の作用を見る、
 気づきを言う。


 10前空転変 皆由妄見
   不用求真 唯須息見

   ぜんくうてんぺん かいゆうもうけん
   ふようぐしん ゆいしゅそくけん
 
 観念妄想が止まないのは
 みな妄見による。
 それを放って置いて
 真実を求めようと努力するのは
 無意味。
 ただ分別の見解を
 止めるべきだ。

 人の観念妄想は
 私があると言うような
 妄見によって起こる。
 仏教では我見といい、
 それが無明そのもの。

 その妄見による妄想を
 放って置いて、
 真実はなにかとか
 追い求めるのは無意味。
 分別によって生じる妄見を
 息めることこそ大事。

 11二見不住 慎忽追尋
   纔有是非 紛然失心

   にけんふじゅう しんこつついじん
   さいうぜひ ふんねんしっしん

 有るとか無いとかの
 二元論を立たず、
 いつまでも
 囚われていてはいけない。
 これが正しいとか
 あれは悪いとかの見解に
 縛られていては、
 心も乱れ見失ってしまう。

 哲学者のように
 さまざまな見解を追求していけば、
 論議は更に分かれ自分の心も
 判らなくなってしまう。

 そのような
 自縄自縛の論理や見解があれば
 心も乱れ見失うゆえに、
 いかなる見解や
 依って立つ論理的な立場なども、
 棄てるべき。
 
 12二由一有 一亦莫守
   一心不生 万法無咎

   にゆいちう いちまたまくしゅ
   いっしんふしょう ばんぽうむきゅう

 二元論の見解も
 一元論に帰するものだが、
 その一元の論理さえ
 守ってはいけない。
 ひとつの論理もなくなれば、
 一切の法が
 滞りなく作用する。

 論理が収束して
 ひとつの見解に落ち着いたといえども、
 その見解さえも
 守ったり囚われたりしてはいけない。

 なんらの論理も見解も
 心にないとき、
 心もまた根本に回帰し
 一切の法が明らかとなり、
 欠けることなく働く。

 13無咎無法 不生不心
   能随境滅 境逐能沈 

   むきゅうむほう ふしょうふしん
   のうずいきょうめつ きょうちくのうちん
 
 咎なければ法は無く、
 観念が生じなければ
 心もない。
 認識能力は
 世界が滅するに従って滅し、
 世界は認識能力が沈むことで
 なくなる。

 法が明らかに作用して
 心が観られれば、
 心の働きは止む。
 そのときに観念は生ぜず、
 観念が生じないから
 それを対象とする心も起こらない。

 認識能力は
 境界を区別する力を失って止まり、
 境界を区別することがなければ
 認識能力も働かない。

 14境由能境 能由境能
   欲知両段 元是一空

   きょうゆうのうきょう のうゆうきょうのう
   よくちりょうだん げんぜいっくう

 境界は
 認識能力によって境界としてあり、
 認識能力も境界を認識することで
 成り立っているからだ。
 それら二つの
 ありようを知ろうとすれば、
 それらを一つの空として観なさい。
 なぜならば認識は
 自他の境界を区別し、
 さまざまな万物を分別することで
 成り立っているからだ。

 その区別された境界が
 さらに認識を
 確固たるものに思わせ、
 疑いようがないので
 認識と境界は互いに
 ますます強め合っている。

 それらふたつの仕組みを
 観察しようとするならば、
 ひとつの空なるものとして
 観察すべきだ。
  
 15 一空同両 斉含万象
    不見精粗 寧有偏党

   いっくうどうりょう さいがんばんしょう
   ふけんせいそ ねいうへんとう

 ひとつの空として
 ふたつを等しく観察すれば、
 一切の認識するものが斉しく
 包含されているのがわかる。
 その特徴を探ろうとして観れば
 偏りが生じ、
 見ることができない。

 心のうちに深く秘められた
 認識と境界の仕組みを観察すれば、
 そのなかに一切のものごとが
 包含されているのがわかる。

 認識によって自他の境界があり
 世界があり、
 万物の起こる縁となります。
 その世界が
 認識をますます強固とさせるゆえに、
 終わることがない。

 その働きをあまりにも集中して
 観察しようとすれば、
 自己同一化が起こり、
 観ることができない。

 あくまでも両者を斉しく
 空なるものとして放念し、
 おのずから起こるままに
 観察することが肝心。
 
 16大道体寛 無難無易
   小見狐疑 転急転遅

   だいどうだいかん ぶなんぶい
   しょうけんこぎ てんきゅうてんち

 おおいなる道の本体は広く
 難しくもなければ、
 易しくもない。
 小さな見方や疑いがあれば、
 焦りや遅滞を招く。

 本来の修行の道のあり方は
 大きな道は広いもので、
 行くのに難しい
 ということもなければ、
 歩みが易しすぎる
 ということもない。

 ただ囚われた見解や
 疑いがあれば
 焦りや遅滞を招き、
 みずから迷妄に陥る。

 17執之失度 必入邪路
   放之自然 体無去住

   しゅうのしつど ひつにゅうじゃじ
   ほうのしぜん たいむきょじゅう

 そのように
 執着すれば度を失い
 邪道に入る。
 自然に放念すれば、
 本来は去ることも
 住することもない。

 修行の道や心に執着すれば
 心は鎮まることなく
 邪道に陥る。
 心に囚われることがなく
 自然に心を解き放てば、
 心は居つくことも去ることも無く
 鎮まる。

 18 任性合道 逍遥絶悩
    繋念乖真 昏沈不好

   にんしょうごうどう しょうようぜつのう
   けねんかいしん こんちんふこう

 わたしの本性に任せれば
 却って道に合致し
 逍遥として苦悩を絶てる。
 なにごとにでも
 念を繋ぐことあれば、
 真の法と乖離し
 昏沈して好くない。

 わたしの本心、本性を知り
 それに任せて力を抜けば
 心は却って安らぎ、
 苦悩も無くなりなる。
 なにごとも念に
 囚われていれば
 法でさえ上手く働かず、
 智慧も働かない状態になって
 良くない。

 19好不労神 何用疎親
   欲趣一乗 勿悪六塵

   こうふろうしん なんようそしん
   よくしゅいちじょう もつあくろくじん

 好くないままに続ければ
 精神は疲労するから
 何ものも遠ざけたり
 親しんだりしてはいけない。
 修行の道を
 まっとうしようと想うならば、
 修行の妨げとなる六つの塵と
 よばれるものも無理に遠ざけたり
 親しんでもいけない。

 そのように
 良くないままに修行を続ければ
 瞑想をしても精神は
 疲労するばかりだから、
 何かを遠ざけたり
 親しんだりしようと
 してはいけない。

 そうであるから
 真の修行をしようとする者は
 身心の刺激となる、
 色や音や香りや味や
 触感や法などの6つを
 憎んでもいけない。

 本来の教えではそれら6つを
 遠ざけるべきであるとされているが、
 それにさえも囚われれば
 却って良くない。

 20六塵不悪 還同正覚
   智者無為 愚人自縛

   ろくじんふあく げんどうしょうがく
   ちしゃむい ぐにんじばく

 その六塵を
 憎んで遠ざけたりしなければ
 却って修行の道に
 還ることにもなる。
 賢い者は
 そのようにむりに六塵を
 避けようとせず為すがままにするが、
 愚かな者は
 それらを遠ざけようとして
 かえって自ら縛られる。

 六塵を憎んで
 遠ざけたりしないならば、
 それが却って修行の道としては
 正しいことにもなる。

 賢い者は
 そのように法にも囚われず
 縛られず、あるがままにして
 修行の道を進むが
 愚かな者は
 みずから法に縛られて苦悩する。 

 21法無異法 妄自愛著
   将心用心 豈非大錯

   ほうむいほう もうじあいじゃく
   しょうじんようじん あにひだいしゃく

 それは
 法が間違いなのではなく
 みだりに自ら
 愛着するのがいけない。
 それは心を以って
 心をあやつるのだから、
 大いなる錯覚というものに
 違いはない。

 六塵を遠ざけよという法が
 間違いなのではなく
 それらにも妄りに
 自分から愛着するから、
 法によっての苦も起こる。

 執着する心を
 心によって操作しようとするから、
 法が苦悩を起こすことにさえもなる。

 それは正に大きな錯覚としか
 いいようがない。

 22迷生寂乱 悟無好悪
   一切二辺 浪自斟酌

   めいしょうじゃくらん ごむこうお
   いっぺんにへん ろうじしんしゃく

 そのように
 迷いは心の乱れを生むが
 悟れば好悪もない。
 一切の二元の論は、
 みずから斟酌するゆえに
 ある。

 迷いや囚われがあると
 法でさえも心を乱すが
 悟れば
 好悪の区別も無くなる。
 それはすべての好悪や
 得失や是非などの二元論が、
 みずから分別し、
 斟酌するゆえ。


 23夢幻虚華 何労把捉
   得失是非 一時放却

   むげんろか なんろうはそく
   とくしつぜひ いちじほうきゃく

 夢幻や虚ろな花は
 どのように労力を
 費やしても
 捉えられない。
 得失も是非も、
 まとめて一辺に
 放り棄てなさい。

 夢幻や幻覚の花は
 どのように苦労しても
 捉えることが出来ない。

 そのような夢幻は
 得ることも無ければ失うことも無く、
 好いものとすることもなければ
 悪いものとすることも
 在りえない。

 そのように
 一切の得失や是非などの分別も
 夢幻として両方とも一度に放ち、
 脱却しなさい。

 なぜならば
 得るということがあれば
 同時に失うこともあり、
 是認することがあれば
 否認することも生じるからだ。

 まさに夢幻の花が
 得ることも失うことも無く、
 是認することも否認されることも
 無いように、
 一辺に捨て去るのだ。

 24眼若不睡 諸夢自除
   心若不異 万法一如

   げんにゃくふすい しょむじじょ
   しんにゃくふい ばんぽういちにょ

 もし眼が寝ていないのならば
 すべての夢が
 おのずから除かれるように。
 心にもし不異がなければ、
 一切の法は
 ひとつの如くなる。

 どれほど
 たくさんの夢を見ていても
 目を開けば
 夢は自分から消える。

 そのようにもし心に
 あれとこれが違う
 異なっているというような
 分別が無ければ、
 すべてのものごとが
 ひとつであると認識される。

 25一如体玄 兀爾忘縁
   万法斉観 帰復自然

   いちにょたいげん こつじぼうえん
   ばんぽうせいかん きふくしぜん

 一如として
 本体をも無為となれば
 俗世間も忘れ去られる。
 すべての法は斉しく観じられ、
 自然に復帰する。

 そのようにして
 一切がひとつと認識し
 みずからも無為に帰したならば、
 俗世間も忘れられる。
 一切がみな斉しく平等に観られ
 あるがままに回帰する。 

 26泯其所以 不可方比
   止動無動 動止無止

   みんきしょい ふかほうひ
   しどうむどう どうしむし

 その理由などを考えて
 ああだこうだと
 比べてはいけない。
 動きを止めれば動きは無い。
 止まることをやめて動けば、
 止まることはない。

 法とはこのような理由で
 こうなるとか、ああなるとか
 理由などを考えてもいけない。
 たとえば
 動いているものが止まれば、
 動きという現象はない。
 ものが動けば
 止まっているという現象はない。

 27両既不成 一何有爾
   究境窮極 不存軌則

   りょうきふせい いっかうじ
   きゅうきょうきゅうきょく ふぞんきそく

 止まることと
 動くことの両方が
 成立することは無く
 ひとつであることはない。
 究極の境地においては、
 もはや世間の論理は
 存在しない。
 
 そのように
 止まることと動くことが
 ふたつとも一緒に
 成立すると言うことが無いように
 一切が平等の究極の境地は、
 世間の規範を
 離れたところで成立する。

 28契心平等 所作倶息
   狐疑尽淨 正信調直

   けいしんびょうどう しょさぐそく
   こぎじんじょう しょうしんちょく

 平等の境地に
 心をひとつに止めてあるならば
 所作は共に止む。
 疑いを浄め尽し、正に
 まことの心をもって
 直く調う。 

 平等の境地に
 一心に心を止めるならば
 何ごとかを為すということも
 ない。
 それが無為の境地だ。

 疑いはきよめ尽し
 正にまことの心が
 真っ直ぐに整えられる。

 本心と離れた不浄の心は
 もはやひとつもない。

 29一切不留 無可記憶
   虚明自照 不労心力
   非思量処 識情難測

   いっさいふる むかきおく
   こめいじしょう ふろうしんりき
   ひしりょうしょ しきじょうしきそく

 一切の観念を留めず
 記憶すべきものもない。
 無心にしてみずから心を明らめ
 心配ごとによって
 こころを疲れさせない。
 思量も及ばぬ境地であり
 認識や感情も届かぬ
 深い境地に入る。

 一切の観念がなくなり
 記憶すべきものも無いとは
 記憶による認識を離れた
 真の悟りの境地だ。

 記憶による認識の生み出す
 自我の観念や
 そこから生じる一切の苦をも
 永遠に離れている。

 観念のない心は虚ろだが
 自らの光で照らされている。
 ほかの観念の対象によって
 満たされぬ心が
 観念のない無心の境地によって
 みずから満たされ
 一切は光り輝く。

 そこにはもはや
 一切の苦もなく
 心を疲れさせることもない
 安心の境地。
 思うこともなく、
 認識や感情もそこにはない。

 そのような無認識の境地こそ
 真の悟りだ。

 30真如法界 無他無自
   要急相応 唯言不二

   しんにょほっかい むたむじ
   ようきゅうそうおう ゆいげんふじ

 そのような
 真理の世界には
 自他の区別もない。
 要求に応じて言うとすれば、
 ただ不二と言うしかない。

 悟りを得て見る世界には
 もはや
 自分とか他人と言う区別は無く
 認識もない。
 それゆえに目覚めた者は
 自分と同じことが他人もできると、
 思ってしまう。

 その世界はもはや言葉には
 到底できないものだが
 要請に応じて
 無理に言葉にするとすれば、
 不二という。

 不二とは
 自他、好悪、得失などの区別なく
 一切がただひとつの
 意識であることを表す。

 31不二皆同 無不包容
   十方智者 皆入此宗

   ふじかいどう むふほうよう
   じっぽうちしゃ かいにゅうししゅう

 不二にしてみな同じならば
 包含しないものとてない。
 すべての世界の智者は、
 皆この本源に入った。

 そのように
 ただひとつの意識が在り
 みな同じと感じるならば、
 そのなかに
 この世の一切が含まれてる。
 一粒の砂から広大な台地まで
 一つの雲から境界のない天空まで、
 なにもかもひとつだ。
 
 一切の世界の智者
 目覚めた者たちは
 皆この本源の世界に入った。
 それは本来の在り方であり、
 そこに回帰することでもある。

 32宗非促延 一念万年
   無在不在 十方目前

   しゅうひそくえん いちねんばんねん
   むざいふざい じっぽうもくぜん

 その本源の在り方には
 時の急迫も延伸もなく
 ただ一瞬の念が
 万年の時間と同じ。
 あるということもなく
 在らないこともなく、
 一切が目の前にある。

 そこにはもはや
 時間の観念もなく
 急がなければならないとか、
 まだ時間が在るとか
 想うこともない。

 一瞬の念が
 万年の時間と等しく、
 三千の大世界とも同じと
 感じる。

 そしてもはや在ることも
 在らないこともなく、
 一切が目の前に現れている。
 
 33極小同大 忘絶境界
   極大同小 不見辺表

   きょくしょうどうだい もうぜつきょうかい
   きょくだいどうしょう ふけんへんしょう

 極小と極大は同じ
 その境界も忘絶する。
 極大も極小と同じ
 その辺も見られない。

 不二であれば
 極小の砂粒さえ
 大地と同じであり
 境界もない。

 極大の天空も
 掌中の空間と同じなのは
 その辺縁が
 表われないからだ。

 なにもかもが不二であれば
 そこに境界はなく
 縁もないので、
 極大極小はいずれも同じだ。

 34有即是無 無即是有
   若不如此 必不須守

   うそくぜむ むそくぜう
   にゃくふにょし ひつふしゅしゅ

 不二であれば
 ものごとが有るということは
 即ち無いと同じであり
 無いということも
 有るのと同じと感じられる。
 もしこのように
 ならないのであれば
 未だ真の悟りには
 至っていないのだから、
 その境地を守り続けては
 いけない。

 そのように
 不二の境地に在れば
 もはや有ると言うことと
 無いということも
 まったく同じに感じる。

 もしこのように
 ならないのならば
 それは未だ小悟の境地であり、
 真の悟りには至っていない。

 そのような境地は
 守るべきではない。
 速やかに棄てて、
 真の悟りの境地を目指しなさい。

 35一即一切 一切即一
   但能如是 何慮不畢

   いっそくいっさい いっさいそくいつ
   たんのうにょぜ なんろふひつ

 分別がなければ
 ひとつのすべてがあり
 すべてがひとつ。
 もしこのような
 境地にまで到達したのならば、
 もはや涅槃を
 究極していないのではないか
 という想いも要らない。

 分別を厭離して
 悟りに達したならば
 一切が途切れる事のない
 ひとつのものとして
 感じられる。

 肉体も一つのものでありながら
 一切と感じられ、
 一切はひとつと感じられる。 

 それこそ
 究極涅槃の境地だ。
 その境地にまで達したならば
 もはや大悟徹底の境地であり、
 小悟に陥っているのではないか
 という思いも不要。

 36信心不二 不二信心
   言語道断 非去来今

   しんじんふじ ふじしんじん
   ごんごどうだん ひこらいこん

 信とはまことであり
 究極の真実
 真理、悟りと同じ。
 まことと心は一つ。
 まことと心が一つあるのみ。
 その境地はもはや
 言葉では現せず、
 ただ今ここにあるのみ。

 人が求めるべき
 究極の真実
 真理、悟りとは
 人の心そのものなの。
 それこそが人の求めるべきもの
 知り尽くすべきもの、
 観察し尽くすべきもの。

 人がみずからの心を求め
 知り尽くし
 観察し尽くしたならば
 そのときこそ究極の真実を知り
 真理を得て、
 悟りに達したと言われる。

 こころが真実そのものであり
 真理そのものであり
 悟りそのものです。
 それゆえに心と別のところに、
 真実や真理や悟りを
 求めてはいけない。
 
 これ以上にもはや
 記すべき言葉はない。
 ただ今ここにあるのみ。

 これで
 信と心について記銘すべきことは
 終わる。